「狭い門からはいりなさい」マタイの福音書7章13節、14節
先程、お読みしましたマタイの福音書7章13節と14節は有名な聖書のことばです。また、この箇所はイエス様が山の上で群衆に話された、5章からの山上の説教の結論にあたる大切な部分です。
イエス様は群衆に解りやすいように、例えや物事を対比的に説明しています。例えばこの箇所では、「狭い門と大きな門」「広い道と狭い道」など。イエス様はこの箇所で私たちに何を伝えようとされたのでしょうか。今日は、イエス様が語られた「狭い門」について考えます。
1、「狭い門」入りにくい。
「狭い門」は「いのちに至る門」です。そして、その門は小さく、その道は狭く、それを見出すものはまれです。とあります。そして、その反対に「大きな門」は、「滅びに至る門」で、その道は広くそこから入る者は多いとあります。ここで言われている「狭い門」「いのちに至る門」というのがキリスト教を指し、他の宗教や世の常識を「大きな門」「滅びに至る門」と表しています。人間の神観を大きく二つに分けると、唯一神論と汎神論の二つに分かれます。唯一神論は絶対者(神)を認める宗教で、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教がそれにあたります。汎神論は、神々を信じる宗教を指します。日本の場合は、八百万の神を信じる国ですから、日本の文化にこの汎神論の考えが根強く伝わっていると言えます。唯一神論の神は唯一の神です。キリスト教ではイエス・キリスト、ユダヤ教ではヤハウエ、イスラム教ではアラーの神です。そしてこの三つの共通する点として、旧約聖書に登場する創造主を真の神と信じる点です。また、唯一信教は人間が創りだした神ではなく、神が人間に啓示した宗教という事ができます。それに比べ汎神論は人間が作り出した神々で、多くの場合、ご利益が伴っています。日本の多くのお祭りは神様に豊作を願う祭りです。または、豊作を感謝するお祭りです。また、汎神論の場合、たくさんの神様を同時に祀る傾向があります。商売繁盛のために、二つ三つの神棚がある店を見かけます。神様が多ければそれだけご利益があると信じるからです。唯一信教は絶対者が信徒に絶対の服従を求めます。しかし、汎神論は人間の側が神様を選び、ご利益がなければ、ご利益のある人が神々を選ぶことができます。そこに、汎神論は大きい門ということができるのです。(どんな神様でも信じることが大切で、信じる人間の心に重きを置いた教えが汎神論です。)ある求道者との聖書の学びの中で、その人はどうしてもイエス様を神様と信じることができないと言いました。なぜなら、イエス様を神と信じるなら、今までの生活を変えなければならない、絶対的な神を認めることはその教えを守るために神に服従しなければならない、そうすると、自分の今までの自由な生活を失ってしまい窮屈な生活になるのが嫌でイエス様を信じたくないと答えたのです。確かに、神様を信じるとは、今までのように自己中心な生活から神様中心の生活に変わることを意味しています。しかし、神様を信じるということは自由を失うことではありません。自己中心な生活は変わりますが、私の人生は、神と共に生きる自由です。礼拝を守ることも、礼拝を守らないと神様から罰せられるから礼拝を守っているわけではありません。神様から恵みがいただけるから守っているのです。また、礼拝を守らなければ、自然に信仰を失い、せっかく頂いた信仰を失う危険があるから礼拝を守っているのです。守る守らないは私たちの自由です。しかし、礼拝を大切にする人は必ず成長します。私たちはクリスチャンとして成長したいので礼拝を守るのです。
創世記の3章でヘビ(悪魔)がエバを誘惑した時、ヘビはエバに善悪の木の実を食べるなら「あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり善悪を知るようになる。」と誘惑しました。そこで、エバは善悪の木の実を食べ、夫にも与えたとあります。二人は神様のようになり、自分で善悪を決める権威を求めたのです。それは、神様から離れ、自分を神とすることでした。結局、この罪の故に二人はエデンの園から追い出され、神様との親しい特権を失ってしまったのです。この神との親しい特権を失った人類は、自分を神とし、また、自分たちで作った神々を神として崇めたのです。
2、「狭い門」救いは一つ。
「滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入っていくものが多い。」とあります。どんな宗教でも信じることが大切で、人間は誰でも何らかの宗教を持つべきだと言う人がいます。また、新興宗教の中には、キリストの教え、ブッダの教え、様々な宗教を良いところだけを取り入れた宗教があります。だから、自分たちの教えが一番いいと言う人もいます。はたしてそうでしょうか。それは、すべて人間を中心にした考え方です。唯一神教は、神様が中心の教えです。キリスト教ではイエス・キリストを神の子と信じる人のみが救われると教えます。それゆえ、多くの人々は、キリスト教の教えは狭いと言います。しかし、神の子であるイエス様が人として生まれ、十字架に付けられて殺されなければ、あるいは、そのように言えたかもしれません。しかし、イエス・キリストは歴史的事実として、この世に誕生し、十字架の上で殺されました。それは、神の子が罪人の身代わりとして死ななければ私たちの救いは完成されなかったからです。人間が自らの努力で罪の問題を解決し、神の前に罪のない者として神様の前に立てるなら、イエス様はこの地上に誕生されることはなかったでしょう。しかし、誰も神の前に罪が無いものとして立つことができないので、神様がひとり子をこの世に遣わし、イエス様は十字架の上で死なれたのです。もし、他に救いの方法があったり、人間の努力で罪のない者になれるなら、キリストの死はまったく意味の無いものになってしまいます。イエス・キリストだけが救いを完成できるお方だからこそ、この世に誕生されたのです。だからこそ、私たちはイエス・キリストを神の子と信じる以外に救いはないと信じているのです。つまり、それは、「狭い門」であり「いのちに至る門」であるということなのです。マタイの福音書9章9節に取税人マタイがイエス様に呼ばれて、取税人の仕事をやめてイエス様の弟子になったことが書かれています。また、ルカの福音書19章に取税人の頭ザアカイの話があります。マタイはイエス様に呼ばれて取税人の仕事を捨ててイエス様の弟子になりました。ザアカイはイエス様と出会って今まで不正に得たお金を4倍にして返し、自分の財産の半分を貧しい人たちに施しますと宣言しました。マタイは不正にお金を得ていた仕事をやめてイエス様の弟子になりました。また、ザアカイは取税人という仕事はやめませんでしたが、不正に税金を取ることをやめたのです。二人は、イエス様に出会って変えられました。実は、狭い門から入るということはそういうことだと思います。今まで不正にお金を儲けていた道を捨てて、神様に喜ばれる道を歩むということです。狭い門から入る道は、人から褒められたり、賞賛を受ける道ではありません。しかし、その先に永遠の天の御国があります。私たちの受ける報いは天国にたくさん備えられているのです。