「神様からの最高のプレゼント」(イースター礼拝)

「神様からの最高のプレゼント」 ヨハネの福音書3章15節

イースターおめでとうございます。本来ならば教会において共にイースターをお祝いしたいところですが、残念ながら新型コロナウイルスのために共に集まることができません。そこで、各自の自宅で、お祈りしてこのメッセージを通してイースターをお祝いください。

イースターは、イエス・キリストが十字架に付けられ、殺された後、三日目に復活し、天におられる父なる神様のもとに昇って行かれたことをお祝いするお祭りです。しかし、ここで忘れてはならないことは、イースターはイエス様だけの復活を祝うことだけではなく、私たちの復活も含めたお祭りだと言うことです。コリント人への第一の手紙15章で、パウロがコリントの人たちに教えていることは、コリント教会のある人たちがイエス様の復活は信じていながらも、自分たちがイエス様と同じように(魂だけではなく肉体をもって)復活すると言うことを信じていない人々への警告のことばです。コリント人への第一の手紙15章12節「ところで、キリストは死者の中からよみがえられたと宣べ伝えられているのに、どうして、あなた方の中に、死者の復活はないという人たちがいるのですか。」16節「もし死者がよみがえられないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。」20節「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」

イエス様の復活は、私たちの「初穂」としての復活です。それゆえ、私たちも終わりの時、イエス様と同じ肉体をもって復活し、復活したイエス様と共に、天の御国において、永遠に暮らすというのが聖書の教えです。

もう一つ大事なことは、イエス様が死より復活されるために、イエス様が受けられた苦しみと痛みを忘れてはならないということです。イエス様はどれほどの苦しみと痛みに耐えられたでしょうか。イエス様は神の子であられるのに、処女マリアより生まれ、私たちと同じ体を持たれました。それは、私たちと同じ痛みを感じる体を持たれたということです。以前、イエス様の生涯を描いた「パッション」という映画を見ました。そこには、イエス様が鞭で打たれる姿が正確に描かれていました。その光景は、正確であるがゆえに凄惨(せいさん)な場面となっていました。イエス様の背中が鞭で打たれるたびに、周りに血しぶきが飛び、見る人々にショックをあたえました。私も見るに堪えれず、目をそらしたい気持ちでした。監督のメルギブソンがこの場面の解説でこのように説明していました。「私はこの場面でできるだけ正確にイエス様の受けた痛みを表現したかった。」まさに、その通りの凄惨(せいさん)な場面となったのです。

十字架の苦しみはイエス様だけの苦しみではありません。ご自分のひとり子を人としてこの地上に送られた父なる神の苦しみでもあります。以前聞いた、恩師の先生の証しを忘れることができません。先生が神学校で学んでいた時のお話です。先生は奥さんと三人の男の子の五人で生活していました。しかし、その生活は楽ではありませんでした。ある時、教会のお金持ちの役員に声をかけられ、一緒に食事をした時のお話です。その役員は先生に言いました。「A神学生、三人のお子さんを育てながら、神学校で学ぶことは経済的にも大変ですね。」その時、先生はその役員の方が、経済的にサポートしてくれるのではと期待したそうです。次に、この役員はこのように言われました。「我が家には、後を継ぐ息子がいません。A神学生の家には三人も男の子がいます。三人のうち一人を養子として我が家にいただけませんか。立派な大学を卒業させ、立派な人物に育てることを約束します。」それを聞いた先生は、心の中に怒りが生まれたそうです。「三人いるから一人をよこせだと、犬や猫でもあるまいし、いくら貧しくてもそんなことができるか。」心の中には怒りがありましたが、その場は丁重にお断りをしたそうです。その日一日先生は、不愉快な思いで過ごしたそうです。翌朝、先生はいつものように聖書を開き祈りの時間を持ちました。それでも、昨日のことで心の中に怒りが残っていました。その時、心に一つの声が聞こえました。「あなたは何を怒っているのか。」そこで、先生はその声に対して、昨日の出来事を話しました。すると、また、心に声が響きました。「その人は、あなたの息子を立派な大学に通わせ、立派な人に育てると約束しました。それなのになぜ怒るのか。わたしはあなたのために、ひとり子を十字架に付けて殺すためにこの世に遣わしました。」先生は、その時、初めてその声が神様の声であることに気が付き、はっとしたそうです。自分は子供が三人もいるのに、また、そのうちの一人を養子に頂けば、立派な人物に育てるとまで、約束してくれたのに、こんなに怒っている。神様がどんな思いでひとり子のイエス様をこの地上に送られたのか、父なる神様の痛みが初めて実感としてわかり、涙があふれたという証です。

私たちは聖書を読んで、父なる神様が、私たちの罪を赦すために、ひとり子イエス様をこの地上に遣わされたこと。また、イエス様がどんな苦しみを負い十字架でいのちを犠牲にされたことを何度も読んでいます。しかし、それは二千年前のお話で、実感として理解していないところがあります。それは、自分の罪の大きさがわからないからです。自分の罪の身代わりとして、一人の人(神の子)が実際に十字架に付けられ殺されたと信じるなら、誰しも平気でいられるわけはありません。涙と感謝が湧き出てくるのではないでしょうか。

日本人は仏教の影響で、死んだ人は皆、極楽(天国)に行くと、漠然と信じています。しかし、聖書はそのように教えていません。罪あるものは、自分の罪のゆえに最後の審判の時、神によって裁かれる(罪に定められる)と教えられています。この世でも、罪を犯せば、法律で罰せられます。神様も同じように、罪をうやむやにすることができない存在です。罪を犯した者は自分の罪のゆえに、神によって裁きを受けなければなりません。しかし、すべての者は神様の前に罪を犯し、誰も天国に入れる資格を持つものはいませんでした。そこで、神様はこの罪の問題を解決するために、ひとり子イエス様を人として遣わし、人々の罪をイエス様に負わせ、十字架によって罰せられたのです。しかし、イエス・キリストは神の子であったがゆえに、三日目に復活して天に昇って行かれました。神様はそのイエス様の十字架のゆえに、イエス・キリストを神の子と信じる者の罪はすべて赦すと約束してくださいました。それゆえ、私たちクリスチャンは、イエス・キリストの十字架の死と神様の約束により、罪赦された者として、神様の前に立ち、裁きを受けることなく、天の御国に入る者とされたのです。これが聖書の約束です。

世界中には、たくさんの宗教があり、神々が信じられています。しかし、その神々は偉大で、大きな力を持ち、完璧な姿を誇っています。しかし、キリスト教の神様は違います。私たちが信じる神様は、私たちを助けるために、ご自分のひとり子を十字架の上で犠牲にされた神様です。また、イエス様は、私たちの罪の問題を解決するために、神の姿を捨てて、人として生まれ、十字架でご自身の命を犠牲にされたお方です。誰が、罪びとのために自分のいのちを犠牲にする者がいるでしょうか。しかし、イエス・キリストは歴史的事実として、十字架でご自分のいのちを犠牲にされました。それが、神様の愛で、神様が私たちに与えてくださった最大のプレゼントなのです。あなたは、このことを自分の事として信じますか。これが、イースターの日に神様が私たちに語り掛けてくださる大切なメッセージなのです。