やもめと取税人と幼子

「やもめと取税人と幼子」ルカの福音書18章1節~17節

(1)やもめと不正な裁判官(1節~8節)

このたとえ話は、1節にあるように「いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために。」イエス様が群衆に話されたたとえ話です。当時のやもめは、社会的に弱い立場の存在でした。つまり、誰も相手にしない存在です。それに比べて裁判官は高い地位で人々から敬われていました。ただ、このお話に登場する裁判官は、2節「神をも恐れず、人を人とも思わない裁判官」とありますから、非常に高慢な裁判官と言うことができます。この裁判官の所に、一人のやもめがやって来ては「私の相手をさばいて、私を守ってください。」とひっきりなしにやって来てはお願いしました。この裁判官は、はじめはこのやもめを無視しますが、あまりに頻繁に来るので、うるさくて仕方がない。そこでこの女のために裁判をしてやることにしました。この裁判官がやもめのために裁判を行うのは、このやもめがうるさく、何度でもやって来て仕方がないからでした。イエス様は言われました。6節7節「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。まして、神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放おっておかれることがあるでしょうか。」マタイの福音書7章7節8節では「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさいそうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」とイエス様は言われました。私たちは、祈りが聞かれないと、失望し、祈り続けることが難しい者です。しかし、神は祈り続け者のを決してそのままにしておかれないことを、この例え話は私たちに教えているのです。また、このやもめはクリスチャンを表しています。また、7節の「選民」とはクリスチャンのことです。この後、クリスチャンは迫害の時代に入ります。その時、神様はクリスチャンの祈りに正しく耳を傾け、正しくさばきをおこなってくださると約束してくださったのです。また、「しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」と、終わりの日の迫害が厳しいことをも預言されたのです。

(2)取税人とパリサイ人(9節~14節)

当時、取税人はローマ政府のためにユダヤ人から税金を集める仕事をしていました。当然、ユダヤ人は取税人を嫌い、罪人としてあいさつもすることなく、一緒に食事する者もいませんでした。彼らはユダヤ人でありながらユダヤ人として扱われない、ユダヤ人社会から阻害された存在でした。また、彼らは実際に集めた税金の一部を自分のふところに入れ私服を肥やしていたのです。そのため彼らはユダヤ人から罪人として嫌われました。パリサイ人とは、ユダヤ教の指導者で、人々にユダヤ教の戒めを教え、自らも正しく戒めを守る人でした。それゆえ、パリサイ人は人々から尊敬される存在でした。このパリサイ人と取税人が祈るために宮に上りました。問題は神様の前の彼らの心でした。パリサイ人は心の中でこのように祈りました。11節12節「神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。」確かに彼は立派な生活をし、人々から尊敬される人物でした。取税人は、13節「ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』」イエス様は言われました。14節「あなたがたに言うが、この人が義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」パリサイ人は自分の行いを神さまに誇る者でした。しかし、取税人は自分の罪を認めて神さまの哀れみを求めたのです。神様はこの取税人を義とされました。私たちは神に自分を誇るものがあるでしょうか。何もありません。また、私たちは罪を犯しやすい弱い者です。それゆえ、神様の助けと哀れみを必要とする者です。神はこの取税人の正直な姿を義と認めてくださったのです。

(3)幼子と弟子(15節~17節)

15節「イエスにさわっていただこうとして、人々がその幼子たちを、みもとに連れてきた。ところが、弟子たちがそれを見てしかった。」とあります。当時、子供たちも価値のないものとされ、大人の邪魔者でしかありませんでした。弟子たちは、忙しいイエス様を煩わせないために、幼子を遠ざけようとしたのです。それを見てイエス様は言われました。16節17節「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」こどもには罪はないと言いますが、こどもにも罪はあります。イエス様が言われた「子どものように神の国を受け入れる」とは、こどもは100%親に依存した者です。こどもは、自分で働くこともなく、住む家のことも心配しません。親が出すものを食べ、親と一緒に住む者です。そのように、神様に依存し、神様の与えるものにだけ頼る姿を、こどものように神の国を受け入れる者と言われたのです。私たちは、神様だけに頼り、神様が与えるものだけに満足しているでしょうか。パリサイ人は、自分を神に誇る者でした。私たちは神様の前に、どのような存在でしょうか。私たちは神に生かされている者なのか、それとも、自分自身で自分を養い、神を必要としない者なのか。旧約聖書のヤコブは、自分の知恵に頼る者でした。しかし彼は、ヤボクの川岸で神と格闘し、もものつがいをはずされて変わりました。彼が歩くのに杖を必要としたように、神を必要とする人生に変えられたのです。私たちも神様と出会って変えられたはずです。しかし、時に、ペテロのように自分の力に頼る者になってしまいます。ペテロは自分の意思の強さに頼りイエス様を三度、知らないと言ってしまいました。イエス様は、弟子たちに空の鳥を見なさいと言われました。小さな鳥でさえ神様が守っておられることを弟子たちに伝えようとされたのです。幼子の信仰、それは、父に母に頼って生きる生活です。神様はそのように私たちを守り、養って下さる神様なのです。