ヨハネの福音書6章1節~14節
先週は、イエス・キリストがガリラヤ湖で暴風雨に遇い舟が沈みそうになった時、イエスが波と風をりつけると凪になった出来事。また、この出来事を通して、イエス・キリストが神と同等の権威と力を持っておられるお方であることを学びました。
今日学ぶ、五つのパンと二匹の魚で、男性だけで五千人以上の人々の空腹を満たされたという出来事は、マタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書、ヨハネの福音書の四つの福音書に記されている大切な個所です。マタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書の共観福音書は、この奇蹟の出来事を通してイエスが神と同等の権威と力をお持ちであることを証言しています。ヨハネも同じ出来事を記していますが、ヨハネはその後にイエスが群衆に対して話されたことばを詳しく紹介しています。それは、ヨハネの福音書が使徒ヨハネの晩年に書かれた事。彼が、晩年になってイエスを回想しヨハネの福音書を書いた証拠でもあります。この時、すでに各教会において、共観福音書は読まれていたと考えられます。それゆえ、ヨハネは、イエスの生涯を順番に書いたのではなく、共観福音書に書かれていない出来事を補足する形でヨハネの福音書を書いと考えられています。
また、共観福音書には、最後の晩餐の席で、イエスが弟子たちに新しい契約として、パンとぶどう酒を与えたこと。そしてこれを守るようにと教えられた事が記されています。それは、今、聖餐式として各教会で守られています。しかし、ヨハネの福音書にはその事が記されていません。しかし、多くの学者が、使徒ヨハネはヨハネの福音書の6章の中で、聖餐式について言及していると主張しています。主の晩餐「聖餐式」について学びます。
イエスが五つのパンと二匹の魚で、男性だけで五千人以上の人々の空腹を満たされると、人々はイエスの力に驚きました。ある者は、荒野でイスラエルの民にマナという食べ物を与えたモーセを思い出した人もいたでしょう。人々はイエスを王にするために連れて行こうとしたとあります。イエスはそんな群衆から離れるために舟でカペナウムの方に渡られました。それを知った群衆は舟でイエスのおられる所に渡りました。そして、イエスは彼らに言われました。ヨハネの福音書6章26節「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。」27節「なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。この人の子に、神である父が証印を押されたのです。」イエスが「しるしを見たのではなく、パンを食べて満腹したからです。」と彼らに言われたのは、彼らが、メシヤとしてのしるしを見たからではなく、五千人を満腹した奇蹟に驚いたからだという意味です。それで、彼らはイエスに言った。30節31節「それでは、私たちが見てあなたを信じられるように、どんなしるしを行われるのですか。何をしてくださいますか。私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。『神は彼らに、食べ物として天からのパンを与えられた』と書いてあるとおりです。」イエスは多くのメシヤとしてのしるしを行いましたが、彼らはそれを見てもメシヤのしるしとは考えませんでした。それゆえ、群衆はさらなるしるし、奇蹟をイエスに求めたのです。32節33節「それで、イエスは彼らに言われた。『まことに、まことに、あなたがたに言います。モーセがあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。わたしの父が、あなたがたに天からのまことのパンを与えて下さるのです。神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものなのです。』」荒野でマナを食べた人々は、カナンの地に入ることなく死にました。イエスが言われた「神のパン」とはご自身の事を言われたのです。しかし、群衆はイエスのことばの意味を理解できず、イエスに言いました。34節「主よ、そのパンをいつも私たちにお与えください。」35節「イエスは言われた。『わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。』」40節「わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」41節「ユダヤ人たちは、イエスが『わたしは天から下って来たパンです』と言われたので、イエスについて小声で文句を言い始めた。」とあります。群衆はイエスのことばを理解できませんでした。47節~51節「まことに、まことに、あなたがたに言います。信じる者は永遠のいのちを持っています。わたしはいのちのパンです。あなたがたの先祖たちは荒野でマナを食べたが、死にました。しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがありません。わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。そして、わたしが与えるパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」群衆はイエスのことばを理解できず、52節「それで、ユダヤ人たちは、『この人は、どうやって自分の肉を、私たちに与えて食べさせることができるのか』と互いに激しい議論を始めた。」とあります。さらにイエスは群衆に言われました。53節~58節「イエスは彼らに言われた。『まことに、まことに、あなたがたに言います。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物なのです。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしもその人のうちにとどまります。生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。これは天から下って来たパンです。先祖が食べて、なお死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。』」「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者」とは、イエスを神の子と信じることです。しかし、群衆はイエスのことばを理解できず、66節「こういうわけで、弟子たちのうち多くの者が離れ去り、もはやイエスとともに歩もうとはしなくなった。」とあります。確かに、「人の肉を食べ人の血を飲む」とは、そのままの意味で考えるなら、気持ちの悪い言葉です。このことばを聞いて、多くの弟子たちはイエスから離れてしまいました。マタイやマルコ、ルカは誤解を招かないように、イエスのこのことばを福音書に載せなかったのかもしれません。
マタイの福音書26章26節~28節「また、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取って食べなさい。これはわたしのからだです。』また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、こう言って彼らにお与えになった。『みな、この杯から飲みなさい。これは多くの人のために、罪の赦しのために流される契約の血です。』」聖餐式に使われるパンとぶどう酒の意味は、教派によって少し違いがあります。プロテスタント教会では、このパンとぶどう酒が聖霊の御業によってイエス・キリストの体と血になると理解します。それゆえ、聖餐式のパンを食べ、ぶどう酒を飲むという行為は、死より復活したイエスと交わることを意味しています。
私たちはただ、イエス・キリストが奇跡を行う力があるから、神の子、救い主と信じているのではなりません。聖書自体がイエスが神の子、救い主であると証言しています。イエスは神のことばに従って、十字架で死なれ、死より三日目に復活し天に昇られました。その十字架の死と復活こそ、私たちを罪の問題から助け出し、私たちに永遠のいのちを与えるための神の計画でした。今まで、多くの偽預言者が現われ、奇蹟を行いました。多くの人々がそれに騙され、異端や新興宗教が生まれました。しかし、罪人のためにご自分のいのちを犠牲にされ、死より復活された神はイエス・キリストだけです。それゆえ、私たちはイエスを真の神と信じ、イエスが弟子たちに命じられた聖餐式を守り、復活されたイエス・キリストとの交わりを保っているのです。