「アブラハムの信仰と祈り」創世記12章4節~8節
日本人は、祈りと言うと、神にお願いすることだと考えています。しかし、聖書が教える祈りとは、願い事を神様にささげるだけではないことがわかります。旧約聖書の一番初めに書かれた創世記において、神様は六日間の創造の中で、人間だけを特別にご自身に似せて創造されたとあります。神は何故、人をご自身に似せて創造されたのでしょうか。28節で、神は、海の魚、空の鳥、家畜、地の全てのもの、地をはうすべてのものを支配するように人に命じられました。神は人間をこの地上を治める(管理する)者として創造されたのです。主人がしもべに管理を任せる場合、主人としもべの間には信頼関係がなくてはなりません。(信頼できない相手に大切なことを任せることはありません。)神は地上を神様の御心に従って治めさせるために、人を創造され、神は人に、特別な関係を与えてくださいました。それがご自身に似せて人を造られたという意味です。神は人を創造のはじめから神と親しい者、神が信頼する者として人を創造されたのです。それゆえ、神は人を神と対話できる者として作ってくださったのです。
しかし、その信頼関係を裏切ったのは最初の人アダムとエバでした。創世記の3章においてヘビ(悪魔)がエバに近づき、神様の戒めに疑問を投げかけました。アダムとエバはヘビのことばに惑わされ、神様が食べてはいけないと戒められた善悪の知識の木から取って食べてしまいました。二人は神様の戒めを破り、罪を犯し、神との親しい関係を失い、エデンの園から追い出されてしまいました。また、創世記4書において、アダムとエバの息子カインは、弟アベルに嫉妬して、アベルを殺してしまいました。弟を殺したカインはさらに神様から遠く離れ、自分の欲望を満たす町を作り上げてしまいました。神様はカインとアベルを失ったアダムとエバに、もう一人の子セツを与えました。創世記4章の26節において、セツの子孫から「主の御名によって祈ることを始めた。」とあります。セツの子孫によって人は祈りを通して神との親しい関係を回復することができたのです。しかし、創世記の6章において、神の子ら(セツの子孫)と人の娘たち(カインの子孫)が混じり合い、地上に悪が増大してしまいました。そこで、神は洪水で地上を滅ぼすことを決心されたのです。しかし、ノアだけは神様の御心に叶い、神はノアに箱舟を作るように命じられました。ノアの家族は協力して大きな箱舟を造り、洪水から助けられました。神様はノアの家族から、もう一度、神の御心に叶う世界を作らせようとされました。しかし、ノアの家族も神様との親しい関係を回復することは出来ませんでした。
次に神様が選ばれたのがアブラハムです。神はアブラハムに、親族を離れ、神の示す地に出て行くように命じられました。アブラハムは75歳にして、神様の命令に従いカナンの地へと旅立ちました。神はこの地をアブラハムの子孫に与えると約束して下さいました。アブラハムは、主のためにそこに祭壇を築いたとあります。アブラハムの祈りの生活が始まったのです。また、アブラハムは、ベテルの東にある山に移動したときも、そこに祭壇を築いて主の御名によって祈ったとあります。しかし、飢饉に見舞われ、食べ物が無くなったためにアブラハムは豊かな国エジプトへと向かいました。しかし、アブラハムはエジプトで祭壇を築いたという記述がありません。アブラハムは、神様に頼らないで自分の知恵によって身を守ろうとしたのです。アブラハムは妻のサラに妹だと言うように命じました。夫婦であれば、夫を殺して妻を奪いますが、兄弟であれば、女性の心を自分に向けるために兄に良くするであろうとアブラハムは考えたのです。しかし、その考えは思い通りにいきませんでした。サラはエジプトの王宮に召し上げられてしまいました。この窮地を救ってくださったのは神様でした。アブラハムはもう一度、エジプトを出て、以前に築いた祭壇のもとに戻り、主の御名によって祈ったとあります。
そんなアブラハムでしたが、創世記の15章において、アブラハムは神様に自分に跡継ぎとなる子がいないので、自分の僕、エリエゼルが跡継ぎになるのでしょうかと問いかけました。神様はアブラハムを外に出して、空の星を見させ、あなたの子孫はこの空の星のようになると仰せられました。アブラハムは主を信じたとあります。また、主はそれを彼の義と認められたとあります。ここに信仰により義とされる模範が示されたのです。しかし、そんなアブラハムでしたが、妻のサラに女奴隷ハガルを自分の代わりに妻として受け入れ子を産ませることを提案されると、簡単に受け入れ、アブラハムはエジプトの奴隷ハガルによって一人の男の子を得てしまいました。しかし、その子イシュマエルは神様の計画の子ではなかったために、後、追い出さなければならなくなってしまいました。
また、アブラハムが99歳、サラが89歳の時、主の使いが現れ、来年の今頃、男の子が生まれるという祝福の言葉を聞きましたが、アブラハムもサラもそのことばを信じることなく笑ったとあります。しかし、神様の計画通り、アブラハム100歳、サラ90歳にして、神様は二人に男の子を授けられたのです。そして、その子にイサクという名を付けるように言われたのです。イサクとは笑うという意味です。
そんな不信仰なアブラハムでしたが、創世記の22章において神様から試練が与えられました。100歳にして与えられた大切なひとり子イサクを全焼のいけにえとして捧げるように命じられたのです。この時、アブラハムはすぐに翌朝早く出かけたとあります。アブラハムは神様が示す山に着くと、躊躇することなくイサクを縛り、殺そうとしました。しかし、神はアブラハムに声をかけ、「あなたが神を怖れることがわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」と言われたのです。実際にアブラハムがイサクをささげたわけではありませんが、アブラハムがすでにイサクをささげる決心ができていることを神は知ってそのように言われたのです。
アブラハムは175歳で亡くなりました。アブラハムは75歳で神様と出会い、100年の間、神と共に歩みました。アブラハムは何度となく失敗をしました。しかし、失敗した後、アブラハムは悔い改めて、神様に立ち返り、主の御名によって祈りました。アブラハムの信仰を支えたのは彼の祈りでした。祈りは神との信頼関係を深める唯一の方法です。神は私たちの祈りに耳を傾けてくださるお方です。また、神は祈りを通して私たちに御心を伝えてくださるお方です。祈らなくても、救いは神様の恵みですから、イエス様を救い主と信じた者には恵みとして与えられます。しかし、神様との関係は、私たちが祈るほどに深められていきます。神は私たちをご自身に似せて創造してくださいました。それは、神との親しい関係を結ぶためです。神は私たちの祈りに耳を傾けてくださるお方です。また、神は私たちにやさしく語りかけてくださる神様なのです。時に、試練や苦しみが与えられます。しかし、私たちがその試練や苦しみを耐えられるのは、神様への信頼と愛があるからです。
今年一年、神様に祈りをささげ、神様のことばに耳を傾けましょう。