マタイの福音書27章45節~54節
キリスト教には二つの大きなお祭りがあります。それは、クリスマスとイースターです。クリスマスはイエス・キリストの誕生を祝うお祭りで、イースターはイエス・キリストが死より三日目に復活されて天に昇って行かれたことをお祝いするお祭りです。実は、この二つのお祭りは繋がっていて、この二つのお祭りを結びつけるのが十字架です。
1、キリストの誕生の意味(マタイの福音書1章18節~25節)
イエス・キリストの誕生については、マタイの福音書とルカの福音書に詳しく記されています。マタイの福音書は夫のヨセフを中心に、ルカの福音書は妻のマリアを中心に書かれています。また、二つの福音書に共通していることは、マリアが処女で身ごもったということです。また、その懐妊が聖霊によると聖書は証言しています。マタイの福音書1章20節「彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。『ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。』」ルカの福音書1章35節「御使いは彼女に答えた。『聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。』」なぜ、救い主イエス・キリストは、処女のマリアから生まれなければならなかったのでしょうか。多くの人が新約聖書を読んで最初につまずくのがマリアが処女で身ごもったという事です。ヨセフもマリアが身ごもったことを知り、ひそかに離縁し彼女と別れようとしました。それは、マリアが他の男性と関係を持ち姦淫の罪を犯したと考えたからです。私も初めに聖書を読んだ時、ヨセフと同じようにマリアの姦淫を疑いました。女性が処女で身ごもるなどこの世の考えでは理解できないからです。
しかし、私たちの罪の問題を解決するために、身代わりとして死ぬためには、罪の無い者でなければなりません。罪ある者は他人の罪の身代わりになることはできないからです。マリアとヨセフが関係を持ったとして生まれた子も、アダムとエバの子孫として原罪(罪を犯しやすい性質)生まれてきます。その為私たちと同じ罪人です。それゆえ、罪のない者は神お一人だけです。しかし、神は死ぬことがなく、永遠の存在です。それゆ、罪が無く肉体を持って生まれるためには、処女のマリアを通して神の子が肉体をもって生まれる必要があったのです。私たちの知恵では、どのようにしてマリアが聖霊によって身ごもったのかその方法を理解することは出来ません。しかし、聖書はイエスの処女降誕を理解するのではなく、神の計画として信じること(受け入れること)を強調しています。また、マタイの福音書を書いたマタイは、旧約聖書イザヤ書7章14節の御ことばを引用して、イエスの誕生が神の計画であることを強調しています。マタイの福音書1章22節23節「このすべての出来事は、主が預言者(イザヤ)を通して語られたことが成就するためであった。『見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』それは、訳すと『神が私たちとともにおられる』という意味である。」
2、ゲツセマネの園でのイエスの祈り(マタイの福音書26章36節~46節)
イエスが捕らえられる前に、イエスはゲツセマネの園でこのように祈りました。マタイの福音書26章39節「それからイエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈られた。『わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。』」42節「イエスは再び二度目に離れて行って、『わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように』と祈られた。」また、三度目も同じことばで祈られたとあります。ここで言われている「杯」とは、十字架を示しています。明らかにイエス・キリストは十字架に付けられて死ぬことが神の御心かどうかを求めて祈り、神の御心が十字架で死ぬことであることを理解して前に踏み出されました。確かに、イエスを殺すことが祭司長や律法学者たちの計画でした。それゆえ、イエスを捕らえ、裁判にかけて、死刑の判決を下し、ローマ総督ピラトの権限によってイエスを十字架に付けて殺したのです。しかし、そのことも神の計画でした。神はイエスを十字架に付けて殺し、三日目に復活させることによって私たちの罪の問題を解決されたのです。
マルコの福音書によれば、イエス・キリストは午前九時に十字架に付けられたと記録されています。マルコの福音書15章25節「彼らがイエスを十字架につけたのは、午前九時であった。」また、マタイの福音書27章46節「三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」とあります。イエスは午前九時から午後三時まで、十字架の苦しみに耐えられました。そして、「エリ、エリ、レマサバクタニ」と叫ばれました。その意味は「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。このことばは、詩篇22篇1節のことばと同じ言葉です。イエスはこの詩篇22篇のことばを叫ばれたのか、本当に、父なる神に見捨てられたと感じられたのかわかりません。神に愛され、神と共に歩んだ者が、神に見捨てられるとは、どれほど大きな恐れと苦しみでしょう。イエスは、一人の人間として、最大の苦しみを受けなければならなかったのです。
3、神殿の幕が真っ二つに裂けた(マタイの福音書27章50節~54節)
マタイの福音書27章50節51節「しかし、イエスは再び大声で叫んで霊を渡された。すると見よ、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」とあります。神殿の幕とは「聖所」と「至聖所」を隔てる幕のことです。「至聖所」は、大祭司が一年に一度、動物の血を携えて入ることが許された聖なる場所です。この神殿の幕が真っ二つに裂けたということは、神殿礼拝の終わりを告げる出来事で、イエス・キリストが死より復活することによって、誰でも直接、神に近づくことが出来る時代がやって来たことが、象徴的に表された出来事です。
旧約聖書の時代は、神の戒めを完全に守ることによって、天の御国に入ることが出来ると教えられました。それゆえ、律法学者たちは熱心に戒めを研究し戒めを守ろうと努力しました。しかし、人間の努力では神の戒めを完全に守ることは出来ませんでした。そこで、神は私たちのために、ひとり子イエス・キリストをマリアを通して、人として誕生させました。イエス・キリストは神の子であるので、一度もこの地上で罪を犯すことがありませんでした。しかし、イエスは私たちの罪の身代わりとして十字架でいのちを犠牲にされました。そして、イエス・キリストは神の子ゆえに、死より三日目に復活され、弟子たちにその姿を現わした後、天の父のもとに昇って行かれました。この、処女降誕と復活の土台となっているのが、イエス・キリストが神の子であるという事実です。イエスが神の子でないなら、イエスは姦淫の子であり、死から復活することもありませんでした。イエスの復活は、弟子の一部が目撃した出来事ではなく、多くの証人が存在し、証言しました。それが、聖書の記録として残されています。旧約聖書の時代は、神に認められる正しい人にならなければ、天の御国に入ることが出来ない時代でした。新約聖書の恵みの時代は、イエス・キリストを神の子と信じる者が天に迎えられる時代となりました。それゆえ、今、私たちは正しい行いによってではなく、イエス・キリストを神の子と信じる信仰によって天の御国に迎え入れられる者となったのです。救いの条件が私たちにあるなら、私たちの救いは不安定なものになります。しかし、救いが神の約束なら、それは、私たちの状態に関係なく、神の約束として、変わることのない確かな約束となるのです。