マタイの福音書16章13節~17節
教会では、イエスの誕生を祝うクリスマスと、イエスが死より三日目に復活されたことを祝うイースターの大きな二つのお祭りがあります。なぜ、クリスチャンは、クリスマスとイースターを大切なお祭りとして祝うのでしょうか。この二つの出来事は、同じことを明かしいています。それは、イエス・キリストが神のひとり子であることです。
1、イエスの誕生の意味
イエスがマリヤとヨセフによって誕生した者であるなら、私たちと同じ人間なので、イエスが死より復活することはありませんでした。しかし、イエス・キリストは神の子であり、世界が誕生する以前から父なる神と共におられました。イエスが人として誕生された目的は、私たちの罪の問題を解決するためでした。旧約聖書の時代、神はモーセを通して、牛や羊を殺し、その血を祭壇に注ぎ、その肉を火で焼くことによって、その人の罪を赦すと約束してくださいました。そのささげられた牛や羊のいのちが、罪を犯した人のいのちの身代わりとしてささげられたからです。しかし、牛や羊のいのちでは、罪を犯した人の完全な罪の赦しとはなりませんでした。なぜなら、人のいのちは、牛や羊よりも価値のあるいのちだからです。私たちの罪の問題を解決するためには、人間以上のいのちが犠牲としてささげられなければ、私たちは罪の赦しを受けることはできません。人間より価値あるいのちとは、神のいのち以外には存在しません。なぜなら、罪人の代わりになるいのちとは、一度も罪を犯したことのないいのちでしか、罪人の身代わりになることができないからです。神のいのちがささげられる以外には、私たちを罪の問題から助ける方法はありませんでした。また、神は霊的存在なので、私たちと同じように死ぬことはできません。それゆえ、イエス・キリストは聖霊の力により、処女マリヤの体を借りて、一人の人間としてこの地上に誕生してくださったのです。それが、処女マリヤからイエス・キリストが誕生された理由です。
2、イエスの復活の意味
イエスが苦しみを受け、殺された後、三日目に復活されることは、旧約聖書に預言されたことであり、イエスご自身も弟子たちにそのように説明していました。ユダヤ人たちは、モーセの時代から過ぎ越しの祭りを大切に守ってきました。このお祭りは、イスラエルの民が神の奇跡によって助けられたことをお祝いするお祭りです。エジプト中の初子を殺すという神の裁きからイスラエルの民が助け出されるために、神はイスラエルの民に、門とかもいに羊の血を塗るように命じられました。神はその血を見てその家を通り過ぎるという約束されたのです。イスラエルの民の初子は神の約束のゆえに助けられましたが、エジプト中の初子は亡くなってしまいました。そして、神はこのことを記念として代々伝えるように命じられたのです。イエスが十字架につけられて殺されたのが過ぎ越しの祭りの時でした。神は、初めから、この過ぎ越しの祭りの時に、イエス・キリストのいのちを奪い、三日目に復活されることによって、過ぎ越しの祭りの時にささげられた羊のいのちの代わりに、神の子イエス・キリストのいのちがささげられることによって、完全ないのちがささげられ、本当の救いが完成されたことを表されたのです。
3、イエスの復活と私たちの罪の赦し
イエスが私たちと同じ人間であったなら、死より復活さえることはなかったでしょう。そうであるならば、私たちの罪の赦しもありませんでした。しかし、イエス・キリストは神の子であり、唯一、罪のない神でした。それゆえ、イエスは死より三日目に復活され、弟子たちにその体を見せて、天の父のもとに昇って行かれたのです。
イエスが誕生する前、ユダヤ人たちは、神から与えられた律法を守ることによって神の前に、罪のない者として立つことを努力しました。しかし、だれも、神の戒めを完全に守ることはできませんでした。そんな時代にイエス・キリストは誕生し、人々に神の救いの計画をお話しして、十字架で死ぬことによって私たちに救いの道を完成してくださったのです。ある時、イエスは弟子たちに尋ねました。マタイの福音書16章15節「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」16節「シモン・ペテロが答えた。『あなたは生ける神の子キリストです。』」17節「するとイエスは彼に応えられた『バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。』」
ここでイエスが「血肉」と言われたのは人間の力という意味です。ペテロがイエスに「あなたは生ける神の子です。」と告白できたのは、あなたの知識や力ではなく、神の力であるという意味です。聖書は、イエスの処女降誕と死からの復活を通して、イエス・キリストが神の子であることを証言しています。しかし、私たちの知恵や知識では、処女降誕と死からの復活を信じることはできません。それは神の御業であり、人間の知恵を超えた出来事だからです。私たちがイエス・キリストを神の子と信じるためには神の力が必要だということです。私たちが自分の力や努力によってイエスが神の子であることを理解できたとしたら、その人は自分の努力や力を自慢することになるでしょう。しかし、神が計画されたことは、神がその人の心を開き、イエスが神の子であることを受け入れることでした。それによって私たちが神を褒めたたえることだったのです。もし、イエス・キリストが私たちと同じ罪ある人間であったなら、イエスは死より復活することはできなかったでしょう。しかし、イエス・キリストは神の子ゆえに、死より三日目に復活され、今は、神の右の座についておられます。イエス・キリストは今も生きているゆえに、私たちの罪は赦され、終わりの時に、天の御国に迎えてくださるのです。それが、イエスの復活の恵みであり、今、生きている私たちがイースターをお祝いする理由なのです。