「イエスの復活を信じる信仰」使徒の働き2章23節~36節
先程お読みしました使徒の働き2章23節からの聖書の言葉は、イエス様が十字架で殺され、三日目に復活し天に昇って行かれ、弟子たちに約束の聖霊が下った後、初めてなされた弟子たちの説教です。彼らはこの時、力強くイエス様の復活を述べ伝えました。この後の弟子たちの説教も同じようにイエス・キリストの復活を述べています。イエス様が生きて宣教の働きをされている時はパリサイ人たちがイエス様を迫害しました。しかし、使徒の働きを見ると、弟子たちを迫害したのはサドカイ人たちであることがわかります。なぜ、サドカイ人たちは、弟子たちを迫害したのでしょうか。それは、サドカイ人たちが死人の復活を信じていなかったからです。イエス様の死後、弟子たちが力強く人々に証ししたのがイエス様の復活でした。それゆえ、サドカイ人たちは弟子たちを強く迫害したのです。
後に、クリスチャンとなり、世界中にキリスト教を広めたパウロは、クリスチャンになる前、激しくキリスト教を迫害した人です。なぜ、彼がキリスト教を迫害したのか、それは、弟子たちがイエス様の復活を宣べていたからです。パウロは弟子たちが宣教するイエス様の復活を信じていませんでした。それはでたらめな教えだと思っていたのです。ところが、パウロがクリスチャンを捕らえて牢獄に入れるためにダマスコに行く途中、イエス様がパウロの前に現れ、弟子たちが宣べ伝えていることが正しいことを証明されたのです。パウロは自分の間違いに気づき、イエス様の名前で洗礼を受けキリスト者となったのです。また、私たちは、礼拝の中で使徒信条を唱えています。使徒信条は私たちの信仰告白です。私たちが何を信じているかを口で告白しているのです。その使徒信条の言葉の中にも、イエス様の復活を信じるという言葉が入れられています。それほど、私たちの信仰にイエス様の復活は欠かせない出来事です。それは、イエス様の復活は私たちに三つの大切なことを伝えているからです。
(1)イエス様の復活はイエス様が神の子であることの証明です。
ペテロは死人の復活について、詩篇16篇を引用しています。この詩篇はダビデが書いたとされていますが、パウロが主張するようにダビデは亡くなり墓に納められました。しかし、弟子たちが主張するようにイエス様のお墓は空になっていました。また、弟子たちはイエス様の復活の証人でした。それゆえ、ペテロは旧約聖書の詩篇で言われているハデス(地獄)に捨て置かれず朽ち果てることのない聖者こそイエス・キリストであると証言しているのです。
(2)イエス様の復活はイエス様が永遠に生きていることの証明です。
カトリック教会で使用する十字架にはイエス様の体が十字架に付けられています。しかし、プロテスタント教会で使用する十字架にはイエス様の体は付いていません。それは、カトリック教会はイエス様の贖いを主張し、プロテスタント教会はイエス様の復活を主張しているからだと言われています。イエス様が復活されなかったら私たちの救いも完成されず、イエス様が神の子であることも証明されませんでした。イエス様が十字架で私たちの罪の身代わりとして死なれたことは尊いことです。しかし、イエス様が復活されなければ、悲しい死で終わっていたでしょう。キリスト教も誕生しませんでした。弟子たちは復活の主イエスと出会って変えられたのです。また、イエス様は弟子たちに約束されたように聖霊を与えてくださいました。聖霊は父なる神様と同じ存在です。旧約聖書では、神様に選ばれた人、アブラハムやモーセと神様は共におられました。しかし、今は、イエス様を神の子と信じる全ての人に聖霊が与えられる時代になりました。そして今は、聖霊として神様が私たちと共にいて下さるのです。イエス様が過去の存在であったり、神様が私たちから遠く離れていたら、私たちの慰めや希望や喜びはどこから来るのでしょう。私たちの慰め希望、喜びは永遠に生きて居られるイエス様から、また、私たちと共におられる神様から与えられるのです。
(3)イエス様の復活は再臨の主として来られるイエス様の約束です。
イエス様は復活して弟子たちに姿を現し、もう一度、戻ってくると弟子たちと約束されました。それを再臨と呼びます。聖書全体の主張は、世の終わり、神様の裁きの時は必ず来るということです。全て罪を犯した人はその罪によって裁かれると聖書は教えています。しかし、イエス様を神の子と信じる者の罪はイエス様の負われた十字架の苦しみの故に赦されると約束されています。イエス様が復活されなかったら、イエス様も自分の罪の故に神に裁かれる者でした。また、私たちの罪を背負うこともできませんでした。しかし、イエス様は死より復活して、天の父の右の座(神の権力の座)に付かれ、父なる神様から一切の権威が与えられたとあります。イエス・キリストは私たちを天の御国に招くためにもう一度、神の子として雲に乗ってやって来られるのです。
イエスの復活それは、弟子たちが作り出した作り話ではありません。だれが、作り話のために、自分の命を危険にさらしたり、命をかけて人に伝えるでしょうか。また、人々を恐れて隠れていた弟子たちが、イエス様の復活の証人になれたでしょうか。弟子たちは、事実として復活したイエス様と出会い、大きな使命を与えられたのです。イエスの復活を信じないなら、キリスト教も聖書も道徳の教え、人生の教訓の書となっていたでしょう。そこには、将来に対する希望も喜びもありません。私たちはイエス様が今も生きておられるから、希望を失うことなく、どんな苦しみの中にいても、神様からの助けと慰めを受けることができるのです。イエス様の復活を人間の知恵で理解することはできません。それは、神様の御業だからです。私たちがイエス様の復活を信じるために、神様は私たち一人一人に聖霊を与えてくださいました。また、神様は弟子たちの証言を通して、イエス様の復活を信じるようにされました。最後に、重要なことは、神様との関係を深めることによってです。実際の生活の中でイエス様に頼り、神様に祈り求めることです。神様は私たちを愛し守っておられます。そのことは、私たちが勉強して得ることではなく、神様と接してわかることです。神様は私たちにご自身を現したいと願っています。神様は私たちの近くにおられるのです。