ヨハネの福音書15章1節~7節
あけましておめでとうございます。2023年も皆様と共に新年を迎えることが出来ましたことを感謝します。毎年元旦礼拝において年間聖句を発表し、その個所から説教をしています。今年の年間聖句はヨハネの福音書15章5節の御ことばを選びました。「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」昨年、年間聖句を祈り求めているときに、この御ことばが頭に浮かび、同時に、ぶどう園の情景が頭に浮かびました。
「私は何のために生まれたのか。」これが中学生の時に私の心に浮かんだ疑問でした。それから、25歳になるまで、心の奥底にこの疑問が留まっていました。その後、教会に通うようになり、聖書を通して答えを見つけました。人は偶然に生まれたのではなく、創り主、神がおられることを知りました。神が私たちに命を与えてくださったなら、そこには目的があります。神はなぜ、私たちに命を与えてくださったのでしょうか。その答えは私たちが「多くの実を結ぶため」です。「多くの実」といっても、経済的なことだけではなく、人の内面の豊かさも考えられます。パウロは、ガラテヤ人の手紙の中で御霊の実について説明しています。ガラテヤ人への手紙5章22節3節「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」とあります。ある先生は、御霊の実は一つで、その中に九つの性質が含まれていると説明しています。総合するとそれは、イエスの人格を表しています。私たちが、イエスと繋がることによって、同じイエスの御霊の実の性質を私たちが受け継いでいくということです。
神と出会う前は、自己中心で御霊の実を結ぶことはありませんでした。では、洗礼を受けクリスチャンとなってからはどうでしょうか。私たちは御霊の実が豊かに実を結んでいるでしょうか。私は洗礼を受けてから37年たちますが、どれだけ実を結んでいるかと問われるとお恥ずかしい限りです。先程のイエスのことばでは4節「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」とあります。私たちは自分の力で実を結ばせることはできません。ここで、イエスが言われる「イエスにとどまる」とは、神を信頼することであり、神に依存することです。具体的に言えば、神を第一とし、神以外に頼らないことです。
信仰の父と呼ばれるアブラハムも最初から信仰の人ではありませんでした。創世記の12章でアブラハムは神と出会い、親族から離れ神の示す地へと旅立ちかました。アブラハムはカナンの地に到着すると、その地に祭壇を築いたとあります。しかし、その地が飢饉となり、エジプトへと旅立ちました。しかし、ここで、アブラハムは妻のサラに妹と言うように頼んでいます。それは、サラが美しく、自分が殺されサラが奪われることを恐れたからです。しかし、それでもエジプトに入ると、サラは奪われエジプトの王宮に連れて行かれてしまいました。それを助けたのは神でした。アブラハムはなぜ、はじめから神に助けを求めないで、妻に妹と言わせたのでしょうか。そこに、アブラハムの信仰の弱さがありました。アブラハムはエジプトの町や建物を見て神よりエジプトの国を恐れたのです。そこで神ではなく、自分の知恵に頼ってしまいました。私たちも同じようなことがないでしょうか。教会のことに関しては神に従い、この世のことについては、この世の権力やお金に頼ってしまう弱さがあります。しかし、アブラハムが偉いのは、この後、彼は以前祭壇を築いたところに戻り、「アブラハムはそこで主の御名を呼び求めた。」とあります。彼は悔い改めて、神への信頼を取り戻したのです。私たちもアブラハムと同じように失敗をする者です。しかし、大事なことは、アブラハムのように悔い改めて神に祈ることです。
では、私たちがイエスにとどまる(繋がり続ける)ために何が必要でしょうか。
(1)祈り
神は創世記の1章で、六日間ですべての創造を完成されたとあります。また、神は人間を創造するときに、ご自身に似せて人を創造されたとあります。神の姿に似せてとは、見た目が似ているということではなく、神に近い者、神とコミュニケーションができる者として特別に創られたという意味です。この時、神と人は親しい関係を持っていました。しかし、アダムとエバは罪を犯しエデンの園から追い出されてしまいました。その後、カインとアベルが生まれましたが、カインはアベルを殺し、神によりさらに遠くに退けられてしまいました。その後アダムとエバにセツが生まれ、セツの子より、人々は主の名を呼ぶことを始めたとあります。人は神と親しい関係になりましたが、罪を犯し、神との親しい関係を失ってしまいました。しかしその後、セツの子孫は主の名を呼ぶようになりました。その頃より人は神に祈るようになったということです。祈りは、一方的に自分の願いを神に告げるだけではありません。祈りとは、神とコミュニケーションを持つことで、祈りによって神に近づくことが出来るのです。
(2)聖書を読むことによって
私たちはこの目で神の姿を見ることはできません。しかし、神は聖書の言葉を通してご自身の姿を私たちに明らかにしてくださいました。聖書は神のことばです。神は聖書の言葉を通して私たちに語りかけてくださいます。ぜひ、今年聖書通読に挑戦してみてください。確かに、聖書は読んだだけでは理解できない箇所もあります。それでも、神のことばと信じて読み続けてみてください。旧約聖書を一日3章、新約聖書を1章のペースで読み続けていけば、一年間で旧約聖書を読み通し、新約聖書は二回読み通すことができます。継続は力なりといいます。すぐに大きな実を結ぶことが出来なくても、毎日、聖書を読むことによって、力が蓄えられていきます。また、神の愛を身近に感じるようになります。実を結ぶ人生とは、経済的な祝福だけではありません。それよりも内面的な祝福の方が大きいのではないでしょうか。先程の御霊の実を思い出してみましょう。「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」このような実が実を結ぶなら、私たちの人生はどんなに素晴らしいでしょう。生涯を通してイエスに繋がり、このような豊かな実を結ぶ人生となりますようにお祈りします。