「イエス様に足を洗われた者」ヨハネの福音書13章1節~11節
マタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書、ヨハネの福音書とイエス様の生涯を描いた聖書の個所を福音書と呼びます。その中で、マタイ、マルコ、ルカの福音書を共観福音書という呼び方をします。共に観る書、比較して観る書と言う意味です。この三つについては、イエス様の誕生から十字架の死、復活と同じような流れで記録されています。しかし、ヨハネの福音書に関しては、先の三つの書とは違う書かれ方をしています。マタイ、マルコ、ルカの福音書はイエス様の生涯を通してイエス様が救い主(メシヤ)であることを伝えるために書かれた福音書ですが、ヨハネの福音書はそうではありません。ヨハネの福音書が書かれたのは紀元90年代と言われています。すでにこの時代、教会は世界中に広がり、マタイ、マルコ、ルカの福音書は各教会で読まれていました。ヨハネは、その共観福音書に書かれていない出来事を、イエス様との生活の中で思いだし、共観福音書に書かれていない出来事、または、同じ出来事でも、もう一度、時間をかけて黙想し、イエス様が自分たちに教えようとされた、本当の意味を教えるためにヨハネの福音書を書いたのです。
先ほど、お読みしましたイエス様が弟子たちの足を洗う場面は有名な個所です。しかし、この出来事は、マタイ、マルコ、ルカの共観福音書には書かれていません。逆に、最後の晩餐の場面は共観福音書には書かれているのに、ヨハネの福音書には書かれていません。考えられることは、ヨハネが福音書を書いた時代、すでに殆どの教会で聖餐式が守られ、さらに教える必要がないとヨハネが感じたからではないでしょうか。また、ヨハネは共観福音書には書かれなかった出来事、イエス様が弟子たちの足を洗った場面を思い出し、この場面でイエス様は最後の晩餐と同じことを伝えようとされたことに気が付いたのではないでしょうか。
イエス様が弟子たちの足を洗われた出来事の教訓(教え)の結論を、イエス様は弟子たちにこのように教えています。14節15節「それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」「足を洗う」ということは、互いに仕え合うこと、愛し合うこと、許し合うことを意味していました。弟子たちは自分たちの中で誰が偉いかと議論し、イエス様はそれを聞いて、上に立つものは仕える者になりなさいと言われたことと同じです。はたして、イエス様はこの出来事を通してそのことを伝えようとされたのでしょうか。勿論、その時の弟子たちはそのように受け取ったことでしょう。しかし、ヨハネは、後に、ヨハネの福音書を書き進める中で、この出来事の本当の意味に気が付いたのではないでしょうか。その教えのポイントとなったのはイエス様とペテロとの会話です。
1節に「さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。」とあります。過越しの祭りの時に、最後の晩餐が行われますから、今日の出来事は、それよりも少し、前に行われた出来事と思われます。この後、イエス様が捕らえられ十字架に付けられて殺されます。そのような緊迫した状況でイエス様は弟子たちの足を洗われたのです。それは、突然の出来事でした。3節~5節「イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が神から出て神に行くことを知られ、夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。」弟子たちはどんなに驚いたことでしょう。人の足を洗うことは、一番下のしもべのする仕事と決められていました。イエス様は自らひざまずいて弟子たちの足を洗い始めたのです。ペテロは驚いてイエス様に言いました。6節「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」イエス様はペテロに言われました。7節「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」ペテロはイエス様に言いました。8節「決して私の足をお洗いにならないでください。」ペテロはイエス様に申し訳ないと思ったのでしょう。そんなペテロにイエス様は言われました。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」ペテロはそれを聞いて驚いて言いました。9節「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください。」ペテロは全身洗えば洗うほど、イエス様との関係が深まると考えたのでしょう。イエス様はペテロに言いました。10節「水浴したものは、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですがみながそうではありません。」
イエス様は何故、突然、弟子たちの足を洗い始めたのでしょうか。一つは、弟子たちに互いに仕え合うことを教えるためです。しかし、ここでペテロがイエス様に「私の足を洗わないでください。」と言ったときに、イエス様がペテロに、「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」言われたこと。また、7節で「わたしがしていることは、今はあなたがたにはわからないが、あとでわかるようになります。」と言われた言葉を考えると、ただ単に、イエス様が言われたのは、互いに仕え合うことを教えるためだけではないように思われます。イエス様はこの後、祭司長、律法学者たちに捕らえられ、裁判にかけられ、十字架に付けられて殺されました。最後の晩餐の場面で、イエス様はこのパンはわたしの体であり、ぶどう酒は、罪を赦すための契約の血ですと言われました。イエス様は弟子たちの足を洗うことによって、人々の罪の身代わりとして、自分が死ぬことを弟子たちに預言しようとされたのではないでしょうか。しかし、その場面で、ペテロが自分の足を洗うことを拒んだために、イエス様は、ペテロに「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」と言われたのです。弟子たちの足を洗うということで、イエス様はこれから自分に起こること、十字架の死を預言し、そのことによって人々の罪が赦されることを弟子たちに教えようとされたのです。しかし、十字架の死はさらに先の出来事ですから、弟子たちにはこの時はわからなかったのです。それから、時間がたち、ヨハネが福音書を書くとき、初めて、ヨハネはイエス様が言われた意味が、わかったのではないでしょうか。では、この出来事から私たちが学ぶことはなんでしょうか。それは、イエス様と私たちの関係を結ぶものが、十字架だということです。ペテロがイエス様から足を洗われることを拒んだということは、イエス様による贖いを拒んだということです。別のことばでいえば、イエス様の贖い(十字架の死)をいらないということです。もし、私たちがイエス様の十字架がいらない、イエス様の死がなくても天国にいけると考えているなら、イエス様との関係をもつ事ができないということです。私が教会に来初めのころ、自分の罪がわからず、二千年前に十字架で殺されたイエス様と、現代に住む自分と何の関係があるのかわかりませんでした。しかし、自分が罪人であることがわかったとき、二千年前に十字架で殺されたイエス様が自分の罪を赦すためであったことがわかったとき、心に感動が起こりました。自分が罪を赦され天国に行けるというよりも、自分を罪から救うために一人のいのちが代わりに奪われたことを知ったからです。しかも、それが全く罪の無い神の子が十字架でいのちをささげられたことを知ったときは、驚きと共に感動でした。私のようなもののために、神が身代わりになって死んでくださったのです。イエス様は師である立場を捨てて弟子たちの足を洗うことで、罪人の身代わりとして神である自分が死ぬことを表そうとされたのです。しかし、ペテロにとってはそれは驚きでした。師であるイエス様が自分の汚れた足を洗おうとされたのだからです。自分こそイエス様の足を洗うものだと思ったことでしょう。それゆえ、ペテロはイエス様に自分の足を洗わないでくださいと申し出たのです。しかし、イエス様は弟子のペテロでさえ、罪人であり、神の子によって足が洗われる(十字架の贖いが)必要であることを教えるために、「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」と言われたのです。私たちは神様の前にどう言う者でしょうか。パリサイ人律法学者たちは自分の努力で天国に入る道を選び、イエス様を拒み十字架に付けて殺してしまいました。私たちは、イエス様がなしてくださった贖い(救い)を必要とする者でしょうか。ヨハネはそのことに気付き、イエス様が弟子たちの足を洗ってくださったことを聖書のなかで知らせてくださいました。私たちはこの出来事をどのように受け取るべきでしょうか。