「イエス様の権威(後)病と死」ルカの福音書8章40節~56節
先週は、自然を収める力と悪霊をも支配するイエス様に与えられた神様の権威について学びました。今日は、さらに病のいやしと死人をも生き返らせるイエス様の権威について学びます。
イエス様が、以前の湖の対岸に戻られると、大勢の人々が喜んでイエス様を迎えました。聖書には、「みなイエスを待ちわびていた」とあります。彼らはゲラサ人たちとは違い、イエス様を必要とし、イエス様のお話に喜んで耳を傾ける人々でした。41節「するとそこに、ヤイロという人が来た。この人は会堂管理者であった。彼はイエスの足もとにひれ伏して自分の家に来ていただきたいと願った。」とあります。当時、ユダヤ教の中心は会堂で行われる礼拝でした。会堂管理者とはその責任者で、その町の有力者でした。その彼が、イエス様の足もとにひれ伏してお願いをしたのですから、町の人々は驚いたことでしょう。なぜ、彼がイエス様の足もとにひれ伏してお願いしたかというと、42節「彼には十二歳ぐらいのひとり娘がいて、死にかけていたのである。」とあります。イエス様は、たくさんの人々の病をいやされました。そのうわさを、この会堂管理者も聞いたのでしょう。当時、まだイエス様は身分の低い人々には歓迎されましたが、律法学者や会堂管理者などユダヤ教の指導者たちは、イエス様の権威を疑いユダヤ教の教師とも認めていませんでした。それゆえ、この会堂管理者も普通ならばイエス様の所に来るような人ではありません。ところが、自分の娘が病で死にかけている、医者やユダヤ教の指導者の祈りでも病は治らない、そこで、最後の望みで、自分の身分を省みず、イエス様の力、権威にすがる決心をしたのです。イエス様も彼のへりくだった姿を見て、彼の家に行くことを決心されたのです。
会堂管理者の家に行く途中で、もう一つの奇蹟がなされました。それは、十二年の間長血をわずらった女性がイエス様にさわってその病がいやされたのです。「長血をわずらう」とは、婦人病で血が止まらない病だと言われています。その病は、汚れた病とされ、らい病のように人々から嫌がられました。実際に、長血をわずらう人のさわった物、すわったイスに座るものも同じように汚れると旧約聖書の律法に記されています。それゆえ、人々は彼女を嫌い、彼女に近づきもしませんでした。彼女も、自分が汚れた女であり、人々から避けられていることを知っていたので、彼女は公にイエス様に近づかないで、群衆にまぎれて、イエス様の後ろからそっとイエス様のふさにさわったのです。44節を見ると「すると、たちどころに出血が止まった」とあります。イエス様は自分の体から力がでたのを感じて言われました。45節「わたしにさわったのは、だれですか。」ペテロはそれを聞いて「先生。この大ぜいの人が、ひしめき合って押しているのです。」と言いました。ペテロにとって、イエス様の周りにはたくさんの群衆が取り囲んでいたのですから、誰がさわったかなど気にすることではありませんでした。しかし、イエス様にとってそれは特別なことでした。誰かが自分にさわって、自分から神の力を引き出したからです。47節「女は、隠しきれないと知って、震えながら進み出て、御前にひれ伏し、すべての民の前で、イエスにさわったわけと、たちどころにいやされた次第とを話した。」とあります。彼女は、黙ってイエス様に触り、そのまま姿を消すつもりでした。しかし、イエス様はそうさせませんでした。イエス様は彼女に言われました。「娘よあなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい。」イエス様はあえて、彼女を人々の前に引き出しました。それは、彼女の病の問題が、血が止まらないだけではなく、社会的に汚れた者という立場からの回復が必要だったからです。イエス様は「あなたの信仰があなたを直したのです。」と言われました。では、彼女の信仰とはどのような信仰でしょうか。彼女のような立場の人が大勢の人々の前にでるなら、人々から嫌がられ石を投げられるかもしれない、そのような危険も考えられました。それでも、彼女はイエス様に近づいたのです。それは、イエス様にさわりさえすれば自分の病がきっと直ると信じたからです。前回、学んだ、弟子たちは、風と波のために恐れて信仰を失ってしまいました。(イエス様の権威を認めていませんでした。)それに比べると、彼女はイエス様に自分の病をいやす力があると信じたからこそ、危険を覚悟でイエス様に近づいたのです。その、強い確信(信仰)がイエス様から神の力を引き出したのです。
会堂管理者ヤイロはこの場面をどのように見ていたでしょう。早くイエス様を娘の所に連れて行きたいと思っていたのではないでしょうか。そうこうしているうちに、ヤイロの家から使いが来ました。49節「あなたのお嬢さんはなくなりました。もう、先生を煩わすことはありません。」ヤイロはこの知らせを聞いてどう思ったでしょう。彼は絶望し体中の力がぬけてしまったのではないでしょうか。病気ならまだ直せる。しかし、死んでしまえば誰も直すことができない。イエス様ですら不可能だと思ったのではないでしょうか。しかし、イエス様は彼に言いました。50節「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば娘は直ります。」ヤイロはどのような思いでイエス様のことばを聞いたのでしょう。イエス様がヤイロの家に入られると、すでに、人々は娘のために泣き悲しんでいました。イエス様は人々に言われました。52節「泣かなくてもよい。死んだのではない。眠っているのです。」人々は、娘がすでに死んでいるのを知っていたので、イエス様をあざ笑ったとあります。イエス様が娘の手を取り「子どもよ。起きなさい。」と叫んで言われると、娘の霊が戻って娘はたちどころに起き上がったとあります。人々は驚いたことでしょう。また、ヤイロはどんなに喜んだことでしょう。
ルカの福音書8章22節から56節を通して、イエス様の四つの奇蹟を学びました。弟子たちはイエス様と生活を共にしていながら、舟の上で嵐に遭うと、信仰を失ってしまいました。それは、弟子たちが、イエス様に自然を収める神の力、権威を認めていなかったからです。それに比べて、十二年の間、長血に苦しんだ女性は、危険をかえりみずイエス様に近づきました。彼女は、イエス様にさわりさえすれば、十二年間苦しんだこの病が直ると信じたからでした。また、会堂管理者ヤイロは、自分の地位を捨ててイエス様の足もとにひれ伏し、娘の病を治して欲しいと懇願しました。そこにも、彼が、イエス様なら娘の病を直す力、権威があると認めた信仰があったからです。ある人が、「神様は私たちの人生に宿題を与えられた」と言いました。確かに、私たちの人生には、苦しみや悲しみ、問題があります。私たちはその問題をどこに持っていけばいいでしょうか。ある人は、専門の医者、カウンセラーに相談するかもしれません。又は、友人や信頼する先生に相談する人もいるでしょう。しかし、人間の力で解決できない問題はどうしたらいいでしょうか。苦しみが去るまで我慢するのでしょうか。それとも、あきらめて生きていくか。しかし、ここに、人間の力を超えた方がいます。イエス様は言われました。求めなさい、そうすれば与えられます。私たちは誰に助けを求めるべきでしょうか。イエス・キリストはそのために人として生まれ、十字架の上で死んでくださいました。その神が、私たちを助けたいと待っておられるのです。