エサウとヤコブが求めた祝福

創世記25章29節~34節

先週は、アブラハムとサラの子イサクとその妻リベカから学びました。リベカは不妊の女性でしたが、夫イサクが彼女のために神に祈ると、イサクが60歳の時に、リベカは双子を産みました。また、リベカは、双子を出産する前に、主の御心を求めると、兄が弟に仕えるという神の預言のことばを聞きました。そして誕生したのが長男エサウと次男ヤコブです。イサクは狩りが好きなエサウを愛し、リベカは天幕に住むヤコブを愛したとあります。このように父と母がそれぞれ自分の好む子を偏って愛することによって、神の家族に禍をもたらしてしまったのです。

1、エサウの性格と問題(創世記25章29節~34節)

エサウは狩りを好む野の人となりました。父イサク自身も狩りを好み、親子でよく狩りに出かけたものと考えられます。性格や体格、好みなどを総合して、父イサクは自分の後継者(族長)として、エサウに期待をかけていたのではないでしょうか。しかし、エサウは単純で、思慮に欠ける部分がありました。先ほどお読みした創世記25章の場面、弟ヤコブとのやり取りにその欠点が明らかにされています。エサウは、野から帰って来た時、空腹で我慢ができない状態でした。エサウはヤコブが料理をしているのを見つけると、我慢ができずに、ヤコブに食べ物を求めたのです。そこで、ヤコブはエサウの弱みに付け込み、長子の権利を譲るように条件を出しました。この時のエサウにとって長子の権利などどうでもよいものでした。そこで、エサウはヤコブに長子の権利を譲ることを誓い、ヤコブが差し出した料理を食べて満足して立ち去りました。聖書はこのエサウの行為を34節「こうしてエサウは長子の権利を侮った。」記しています。

2、ヤコブの性格と問題(創世記25章29節~34節)

ヤコブは兄エサウとは違い、穏やかな性格でした。それゆえ、狩りに出かけて獲物を捕るよりも、天幕に住まうことを好みました。それは、母リベカと共に過ごす時間が長くなり、親子が一体になりやすい状態であったと言えます。また、ヤコブは、次男でありながら兄エサウの長子の権利を自分のものにしたいと言う野心がありました。それは、母リベカが神のことば「兄が弟に仕える」とうことばを伝え聞いていたからかもしれません。ヤコブの狡猾さは、この場面で、兄エサウの弱みに付け込んで、彼に「長子の権利」を譲るように誓わせたことに表されています。ヤコブ自身は「長子の権利」がどんなに大切なものか知っていながら、兄の性格を知り、彼が長子の権利よりも食べ物に弱いことを知っていて、食べ物と交換に長子の権利を譲ることを誓わせたのです。相手の弱みに付け込み、自分の思い道理に相手を操る、ずる賢さがヤコブの心の中に潜んでいたのです。

ここで言われている「長子の権利」とは、何を指すものでしょうか。一般的には、「長子の権利」とは、族長としての権威と全財産を意味しているものと考えられます。しかし、聖書においてはそれだけではありません。特にアブラハムの家系においては、それだけではありません。アブラハムの家系においては、「長子の権利」とは、アブラハムが神より受けた祝福を意味しています。アブラハムが受けた神の祝福はイサクに受け継がれました。そして、その祝福は、二人が生まれる前から、弟のヤコブに与えられることが、神によって定められていました。しかし、イサクもリベカもヤコブも、その神の祝福はイサクの後継者、族長に与えられるものと考えていました。それゆえ、父イサクは長男のエサウに特別な祝福の祈りをしようとし、リベカはその祝福の祈りは弟のヤコブに与えられなければいけないと考え、ヤコブは長子の権利を自分のものとするために、父をだまして兄に成りすまし、その特別な祝福の祈りを奪い取ってしまいました。アブラハムに与えられた神の祝福は、神が選んだ人に与えられるものです。それゆえ、イサクやリベカが決めることではありません。そのことに、イサクやリベカ、ヤコブは気が付きませんでした。もともと神の計画は、ヤコブにアブラハムの祝福を与えることでした。それゆえ、ヤコブは、父をだまし、兄の祝福を奪わなくても、初めから「長子の権利(神の祝福)」はヤコブに与えられるものだったのです。

3、神との出会い(創世記28章10節~22節、32章22節~32節)

アブラハムは直接、神と出会い神と契約を結びました。私たちも、神の子、神の民となるためには、神と個人的な契約を結ばなければなりません。それが、イエスを主と告白することであり、イエスの御名によって洗礼を受けることです。私たちが神の子、神の民となることは、私たちの人格や行いの正しさに関係なく、神の一方的な恵み、神の約束です。しかし、私たちの信仰が強められ、神様との信頼関係を深めるためには、神との特別な出会いが必要です。ヤコブの生涯を見るなら、ヤコブは、二回、神との大切な出会いがありました。初めは、兄の怒りを恐れ、叔父ラバンの家に行く途中の出来事です。ヤコブは初めて、荒野で一夜を過ごすことになりました。彼はどんなに心細かったことでしょう。ここで彼は、天に届くはしごの夢を見ました。神は彼に言われました。創世記28章15節「見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る、わたしはあなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」一人で夜を過ごすヤコブにとってこの神のことばはどんなに彼を力づけたことでしょう。これが、ヤコブと神との最初の出会いでした。それから、20年後、神はヤコブに生まれ故郷に帰るように命じられました。しかし、20年たっても、ヤコブは兄エサウの怒りを恐れました。故郷に近づけば近づくほど、その恐れが強くなり、ヤコブはヤボクの川岸に来た時、家族を川の対岸に送り、一人、家族と反対側の川岸に残りました。創世記32章22節からの出来事です。ここで彼は神と格闘しました。この場面が夢なのか、祈りの表現なのか、幻なのかは分かりませんが、ヤコブは神と格闘して神にしがみつきました。そして、祝福を求めました。神は彼のももの関節を外されましたが、彼に「イスラエル」という名を与えました。その意味は28節「あなたが神と、また人と戦って、勝ったからだ。」と言われました。

4、結論

「長子の権利」とは、ただ、族長という立場や権威、財産を指す言葉ではありませんでした。それは、神との親しい関係、神から与えられる一方的な祝福を意味するものでした。エサウは、そのことを理解していたでしょうか。ヤコブが兄エサウの住む町に近づいた時、エサウは快くヤコブを迎え入れています。この場面では、エサウのヤコブに対する憎しみはありません。なぜ、エサウはヤコブを赦すことができたのでしょうか。それは、エサウは彼の望んだ父の財産は全部自分のものにしていたからです。ヤコブは兄の怒りを恐れ、家を出て行きました。エサウはその後、族長としての立場と父の財産を全部自分のものにしました。それゆえ、弟ヤコブへの憎しみは無くなったものと考えられます。こう考えると、二人が求めていたものに違いがあることが分かります。兄エサウが求めた物は、父の族長としての権威と財産でした。しかし、ヤコブが求めたものは、祖父アブラハムが神から与えられた祝福の約束ではなかったでしょか。二人は、それぞれ、願ったものを手に入れました。エサウは族長となり、ヤコブはアブラハムの子孫としての神の祝福を受けました。このアブラハムの子孫から、救い主、イエス・キリストが誕生したのです。目に見えるこの世の財産は無くなってしまいます。私たちは、どんなに財産を蓄えても、死んだ後は、それをどうすることもできません。イエスは群衆に向かって、天に宝を蓄えなさいと言われました。私たちの人生のゴール(目的)はどこにあるでしょうか。財産を蓄えること、有名になること。では、その先はどうでしょうか。私たちはこの地上での生活だけではありません。私たちは、死んだ後、神によって、天国と地獄に分けられると聖書にあります。私たちのゴールはどこにあるでしょうか。エサウはこの世の富を求め、ヤコブは天の御国を求めました。私たちは何を人生のゴールと定めているでしょうか。