カナの結婚式で行われた最初のしるし

ヨハネの福音書2章1節~11節

聖書は読むだけで理解できるところもありますが、説明されないと理解できない箇所もあります。今日のカナでの結婚式の出来事は、説明が必要な個所です。私が初めにこの個所を読んだ時、なぜ、水をぶどう酒に変えたことが「最初のしるし」と聖書に記されているのか理解できませんでした。水をぶどう酒に変えることは手品師でもできる程度の事ではないかと思えたのです。しかし、神学校で学び、聖書の注解書を読むことによって、イエスが水をぶどう酒に変えた本当の意味を知った時、なるほどと理解できました。カナの結婚式でイエスが水をぶどう酒に変えた本当の意味を学びます。

イエスが悪魔の誘惑を退けた後、イエスと弟子たちはカナの結婚式に招かれました。この結婚式はイエスの母マリアの近い親戚の結婚式と考えられます。すでに母マリアは宴会のために働いていました。ユダヤの結婚式は、親族や近所の者を招いて普通、七日間盛大に行われます。イエスと弟子たちがカナの結婚式に到着したのが何日目であるかわかりませんが、すでに多くの者が集まり、ぶどう酒が無くなってしまいました。ぶどう酒が無くなることは主催者にとって恥ずかしいことでした。そこで、イエスの母マリアは親族が恥を見ないようにイエスに「ぶどう酒がありません」と相談したのです。4節「すると、イエスは母に言われた。『女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだきていません。』」イエスの返答は、親子でありながら冷たく感じます。しかし、イエスはすでに神の子として宣教の働きを始めていました。それゆえ、イエスはすでに自分は神のために働いている身ですよ。以前の私とは違いますと、ご自分の立場をはっきりさせるために、あのような冷たい態度を示したものと考えられます。また、「わたしの時」とは、ヨハネの福音書では、十字架の死と復活の時を表しています。それゆえ、まだ、そのときではないという意味です。しかし、イエスは愛情深いお方ですから、母の心配を無視するような方ではありません。この後、イエスは水をぶどう酒に変えることによって母の願いを聞かれたのです。

ここで注目したいのは、イエスがぶどう酒に変えた水が、ユダヤ人の身をきよめるために備えられた水だということです。6節「そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、石の水がめが六つ置いてあった。それぞれに、二あるいは三メトレテス入りのものであった。」とあります。聖書の欄外に1メトレテスは40リットルとありますから、80リットルから120リットルの入る大きな水がめであることがわかります。また、ユダヤ人は昔から衛生に気を使い、外から帰ってきたら、水を浴びてからしか食事をしないとか、食事の前には手を洗ってから食事をしなければいけないと戒められていました。それゆえ、イエスがぶどう酒に変えた水は、ユダヤ教で身をきよめるために備えられた特別な水だと考えられます。7節「イエスは給仕の者たちに言われた。『水がめを水でいっぱいにしなさい。』彼らは水がめを縁までいっぱいにした。」8節「イエスは彼らに言われた。『さあ、それを汲んで、宴会の世話役のところに持っていきなさい。』彼らは持って行った」とあります。宴会の世話役はそのぶどう酒を飲んで言いました。10節「こう言った。『みな、初めに良いぶどう酒を出して、酔いが回ったころに悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておきました。』」この世話役のことばを通して、イエスが水を変えたぶどう酒が良い良質のぶどう酒に変わったことがわかります。11節「イエスはこれを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた。」とあります。ここで、きよめの水はユダヤ教を表しています。イエスのこの後の働きは、ユダヤ教を新しいぶどう酒キリスト教に変える働きとなります。しかも、それは、イエスの十字架の死によって。イエスはこのユダヤ教のきよめの水を、良いぶどう酒に変えることによって、これから行う、イエスの働きのはじめのしるしとされたのです。以前にもお話ししましたが、ヨハネの福音書は、使徒ヨハネが晩年になって、イエスのなされたことを回想して書かれた書物です。それゆえ、この出来事も、この時にはヨハネも他の弟子たちも、気付いていなかったものと考えられます。後に、ヨハネはイエスの生涯をまとめる時に、この出来事を思い出し、はじめてイエスが行われた奇蹟の意味に気付き、ヨハネはイエスの最初のしるしとして、この出来事をヨハネの福音書に記したものと考えられます。それゆえ、他の福音書、マタイ、マルコ、ルカの福音書には記されなかったのです。

神はアブラハムと特別な契約を結びました。そして、神はモーセを通して律法(神の戒め)を与えました。この契約は、神の契約を守るならば祝福され、守らないならば呪いを与えるとう契約です。また、この契約はイエスの時代にもユダヤ人は熱心に守りました。特にパリサイ人や律法学者たちは旧約聖書を研究し、どうすれば神の戒めを守り天の御国に入ることができるのか、人々に教え研究しました。しかし、彼らはしだいに、神の戒めに自分たちの教えを付け加え、自分たちが守れる(形だけ守れる)神の戒めに変えてしまいました。イエスは神の戒めを否定したのではなく、彼らの間違った教えを批判したのです。その結果、イエスは祭司や律法学者たちから憎まれ、十字架に付けられて殺されてしまったのです。ユダヤ教とキリスト教の大きな違いは何でしょうか。ユダヤ教も神に与えられた教えですが、彼らに与えられた救いは、律法(神の戒め)を完全に守ること、行いによる救いでした。しかし、キリスト教は、私たちの救いのためにイエス・キリストが神の姿を捨てて、人として誕生されたこと、私たちの罪の身代わりとして十字架で死に、三日目に復活し天に昇って行かれたことを信じる信仰による救いです。私たちの良い行いや正しさではなく。神がなして下さった神の業を信じる信仰です。イエス・キリストが生まれることによって、律法の時代は終わり、今は恵みの時代に代わりました。イエス・キリストは、ユダヤ人のきよめの水をぶどう酒に変えることによって、これから行おうとする福音宣教の働きについて明らかにするために、水をぶどう酒に変えられたのです。今は、神の恵によって救いが与えられる時代です。しかし、そのために、イエス・キリスト神の姿を捨てて、人として誕生され、十字架の上でご自身のいのちを犠牲とされました。私たちの救いは、イエス・キリストの愛と尊い犠牲による救いです。私たちはそれを忘れてはなりません。それを忘れる時、私たちの信仰は、形だけとなり、感謝や喜びの無い信仰となってしまうのです。