マルコの福音書9章30節~50節
「価値観」という言葉は、物事の善悪や好き嫌い、価値ある、無いを判断するうえで、私たちの根底にある考え方を言います。この価値観の相違によって、対立や互いに理解できない状況を生み出します。この「価値観」は国や生まれた環境によっても違いが出てきます。まったく同じ価値観を持つということはあり得ないでしょう。それゆえ、相手の価値観を理解することによって、協力し一致することができるのではないでしょうか。今日は、イエス・キリストが持っている価値観について学びます。
1、だれが一番偉いか(マルコの福音書9章30節~37節)
31節でイエスは弟子たちに「人の子は人々の手に引き渡され、殺される。しかし、殺されて三日後によみがえる。」と教えられました。これはマルコの福音書8章31節に引き続き二度目の告白(預言)です。一度目はペテロがそれを聞いてイエスをいさめようとしましたが、逆にイエスに下がれサタンと言われ叱られてしまいました。この二度目の告白(預言)の時も弟子たちはイエスのことばを理解することはできませんでした。また、このことをイエスに尋ねることを恐れたとあります。
33節でイエスが弟子たちに尋ねました。「来る途中、何を論じ合っていたのですか。」彼らはイエスに答えられませんでしたな。なぜなら彼らは「来る途中、だれが一番偉いか論じ合っていたからである。」とあります。弟子たちは、イエスがローマの兵隊をユダヤから追い出し、イエスが独立した国を建て上げ、新しい王に就任することを願っていました。それゆえ、彼らはイエスが捕らえられ殺されるなど考えることもできませんでした。彼らはイエスが王に就任した時、弟子の中で誰が一番高い地位に着くかを論じ合っていたのです。イエスは腰を下ろして十二人を呼び言われました。35節「だれでも先頭に立ちたいと思う者は、皆の後になり、皆に仕える者になりなさい。」「先頭に立つ」とは、一番偉くなることです。イエスは偉くなりたい者は、「皆の後」になり「皆に仕える者」になりなさいと言われました。この世の価値観では、偉くなるということは、人を押しのけ自分の力で高い地位に上り、人を従わせることを意味しています。しかし、イエスは、皆の後ろになり、人に仕えなさいと言われたのです。イエス自身ご自分は人を仕えさせるために来たのではなく、仕えるために来たと言われました。また、38節で「だれでも、このような子どもたちの一人を、わたしの名のゆえに受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。また、だれでもわたしを受け入れる人は、わたしではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」と言われました。当時、女性と子どもは、価値が低く、身分が低い者とされました。イエスが言われた「皆に仕える」とは、このような価値のない者とされた、身分の低い女性や子どもに仕えるということです。マタイの福音書25章31節~46節のたとえ話で、人の子が栄光の座に着いた時、すべての国の人々が御前に集められ、右と左に分けられます。そして、右に分けられたものは天の御国を受け継ぎますが、左に分けられた者は永遠の刑罰を受けることになります。両者を分けたのは、マタイの福音書25章40節「まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それを最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。」といわれました。「最も小さい者」とは、この世の価値観では、価値のない者とされ、身分の低い者とされた女性や子どもたちを指しています。イエスが言われた「皆に仕える者」とは、この世で貧しい者や女性、子どもなど身分の低いものを受け入れ仕えなさいと言われたのです。
2、キリストの仲間(マルコの福音書9章38節~41節)
38節で弟子のヨハネがイエスに言いました。「先生。あなたの名によって悪霊を追い出している人を見たので、やめさせようとしました。その人が私たちについて来なかったからです。」ヨハネにしてみれば、別のグループであるのに、イエスの名を勝手に使って悪霊を追い出すなど許せないことでした。そして、自分たちの仲間に加わればまだしも、仲間に加わらないで勝手な働きをしてもらっては困るとして、彼らにその働きをやめるように働きかけたのです。それに対してイエスはこのように言われました。39節40節「やめさせてはいけません。わたしの名を唱えて力あるわざを行い、そのすぐ後に、わたしを悪く言える人はいません。わたしたちに反対しない人は、わたしたちの味方です。」ヨハネだけではなく、私たちも仲間意識があると、別のグループに対しておなじような感情を持つのではないでしょうか。しかし、イエスは、それ以上に、自分の名を使って悪霊を追い出し、人を助けているならそれも神の働きとであると認め、彼らを同じ仲間として受け入れるように言われたのです。
3、神の国と神の裁き(マルコの福音書9章42節~50節)
ここで言われていることは、「両手そろってゲヘナ(地獄)落ちるよりは、片手でいのちに入るほうがよい。」「両足そろってゲヘナ(地獄)に投げ込まれるよりは、片足でいのちに入るほうがよい。」「両目そろってゲヘナ(地獄)に投げ込まれるよりは、片目で神の国に入るほうがよい。」と教えています。聖書において救いとは、神の刑罰よりの救いを意味しています。すべての人は神の前で罪を犯しているので、終わりの時、すべての人は神の前に立たされ、神の裁きを受けなければならないと聖書に書かれています。しかし、イエス・キリストはこの神の裁きから私たちを救うために十字架の上でご自分のいのちをお捨てになられました。罪を犯した者はその罪の代価を支払わなければなりません。しかし、キリストはご自分のいのちで、私たちが支払う罪の代価をあの十字架の死で支払ってくださいました。それゆえ、私たちはキリストのゆえに、罪赦された者とされ、神の裁きを受けることなく、天の御国に迎え入れられる者とされたのです。神の裁きを受ける。ゲヘナ(地獄)に投げ込まれるとはどんなに恐ろしいことでしょうか。ある異端のグループは、この神の裁きを取り除き、信じない者は無に帰すると教えました。彼らは聖書から神の裁き(地獄)を取り除いたのです。しかし、聖書ははっきりと、神の裁き(地獄の存在)を示しています。それゆえ、イエスはたとえ、片手でも、片足でも片目でさえも、天の御国に入るべきだと教えているのです。人は地獄や神の裁きを考えたくはありません。それゆえ、その話を避けたり、見ないようにします。しかし、それでは聖書を間違って理解してしまいます。聖書は私たちを恐れさせるために地獄や神の裁きがあることを伝えているのではありません。聖書が私たちに教えていることは、その神の裁きから私たちを救うために神の子イエスが生まれ、十字架で死なれ、死より三日目に復活されたという事実です。神の裁きではなく、神による救いを伝えているのが聖書です。だれでも、イエスを救い主であると信じるなら救われるとあります。罪とは、罪の自覚があるから罪ではなく、定められた規則や法律に従わないことによって罪に定められます。罪とは、新約聖書のことばギリシャ語ではハマルティヤという言葉が使われその意味は「的外れ」という意味です。多くの人は知らずに罪を犯しています。その行き着く先は滅びです。神はその滅びから私たちを救うために、ひとり子イエスを人として誕生させ、十字架の上で私たちの罪の身代わりとしていのちを取られたのです。聖書は天国についてこのように教えています。ヨハネの黙示録21章3節4節「見よ。神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。神は彼らの目から。涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」神は私たちにこのようなすばらしい天の御国を準備してくださっています。イエスによって罪が赦された者は誰でもこの素晴らしい天の御国にはいることができます。これが聖書が私たちに伝えるすばらしい知らせ、グッドニュースなのです。