ノアの箱舟から学ぶこと

マタイの福音書24章38節~44節
イエス・キリストがノアの箱舟の出来事を弟子たちにお話しになったのは、弟子たちが神殿の立派さに心奪われた時の事です。マタイの福音書24章1節「イエスが宮を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに向かって宮の建物を指し示した。」とあります。マルコの福音書では、13書1節「イエスが宮から出て行かれるとき、弟子の一人がイエスに言った。『先生、ご覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。』」
弟子たちの多くはガリラヤ湖出身です。神殿の荘厳さを見て驚いたのです。そこでイエスは弟子たちにこのように話されました。マタイの福音書24章2節「すると、イエスは弟子たちに言われた。『あなたがたはこれらの物すべてを見ているのですか。まことに、あなたがたに言います。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。』」3節「イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがひそかにみもとに来て言った。『お話しください。いつ、そのようなことが起こるのですか。あなたが来られ、世が終わる時のしるしは、どのようなものですか。』」イエスは弟子たちの質問を受けて、4節から51節に掛けて、世の終わりとその前兆についてお話になりました。今日、学ぶノアの箱舟の出来事は24章の結論に当たる箇所です。イエスは世の終わりの前兆として、偽キリストが現れること。そして戦争、飢饉、地震、クリスチャンに対する迫害、不法がはびこり、福音が全世界に宣べつてられることを挙げました。しかし、それらの前兆の後すぐに世の終わりが来るわけではありません。また、世の終わりについてその時は誰も知らない、父だけが知っておられると言われました。それで、イエス・キリストは、私たちが世の終わりをどのように受け止めればよいかを教えてくださったのがノアの箱舟の出来事です。37節~39節「人の子の到来はノアの日と同じように実現するのです。洪水前の日々にはノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていました。洪水が来て、すべての人をさらってしまうまで、彼らにはわかりませんでした。人の子の到来もそのように実現するのです。」このイエスのことばから分かることは、世の終わりについて、前兆はあるものの、世の終わりは突然あらわれるということです。ノアの箱舟の時もそうでした。
ノアの箱舟については創世記6章から9章まで記されています。神はなぜ、洪水で人々を滅ぼされたのでしょうか。創世記6章5節~7節「主は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった。それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。そして主は言われた。『わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ家畜や這うもの、空の鳥にいたるまで。わたしは、これらを造ったことを悔やむ。』」とあります。神は人を祝福するために創造されました。そして、人に地上を管理するように命じられました。しかし、人は自分の欲望に従って地上を悪の世界へと変えてしまいました。そこで、神は人を創造したことを悔やみ、洪水で人を滅ぼす決心をされたのです。しかし、ここで神は一人の正しい人ノアを見つけました。9節「これはノアの歴史である。ノアは正しい人で、彼の世代の中にあって全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。」とあります。11節12節「地は神の前に堕落し、地は暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、見よ、それは堕落していた。すべての肉なるものが、地上で自分の道を乱していたからである。」とあります。そこで神はノアに命じられました。13節~15節「神はノアに仰せられた。『すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ようとしている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。見よ、わたしは彼らを地とともに滅ぼし去る。あなたは自分のために、ゴフェルの木で箱舟を造りなさい。箱舟に部屋を作り、内と外にタールを塗りなさい。それを次のようにして造りなさい。箱舟の長さは三百キュビト(約150メートル)幅は五十キュビト(約25メートル)高さは三十キュビト(約15メートル)』」神がノアの家族八人だけを救う目的であったなら、これほど大きな舟を造る必要はなかったでしょう。明らかに、神はノアの家族を通して一人でも多くの者が救われることを願っていました。実際、これほど大きな舟を隠して造ることは不可能なことです。人々は、ノアの家族の働きを見ていました。しかし、だれも、洪水が起こり、地上が水で覆われるなど考えもしなかったのです。それゆえ、先ほどのイエスのことばのように、人々は飲んだり食べたりという宴会騒ぎに明け暮れていたのです。神は、必要な動物たちをノアの所に集め、ノアの家族と動物たちが箱舟に入ると雨が降り始め洪水となったのです。
ノアの時代と今の時代とどれほどの違いがあるでしょうか。今の時代も悪が増大しています。それゆえ、いつ神の裁きが起こり世の終わりが訪れてもおかしくない状況です。しかし、それでも神は世の終わりの時を、忍耐を持って待っておられます。それは、一人でも多くの者が救われ天の御国で暮らすためです。ノアの時代、家族八人で箱舟を造ることは大変なことでした。しかし、今は恵みの時代、神は私たちが努力して救われる道ではなく、神の恵みによって救われる道を備えてくださいました。それが、神の子イエス・キリストによる救いの道です。
イエスは世の終わりについてこのように言われました。40節~44節「そのとき、男が二人畑にいると一人は取られ、一人は残されます。女が二人臼をひいていると一人は取られ、一人は残されます。ですから、目を覚ましていなさ。あなたがたの主が来られるのがいつの日なのか、あなたがたは知らないのですから。次のことは知っておきなさい。泥棒が夜の何時に来るかを知っていたら、家の主人は目を覚ましているでしょうし、自分の家に穴を開けられることはないでしょう。ですから、あなたがたも用心していなさい。人の子は思いがけない時に来るのです。」世の終わりは確実に訪れます。その時には、救われる者と神の裁きを受ける者とに分けられます。それゆえ、イエスは私たちが目を覚まして、その時がいつ来ても良いように備えるように命じられたのです。しかし、それだけではなく、神は教会や私たちを通して、一人でも多くの者が救われることを待ち望んでいます。マタイの福音書25章で教えられている、花婿を待つ十人の娘のたとえ話は、世の終わりがいつ来ても良いように目を覚ましていることの大切さを教えています。また、その次のタラントのたとえは、神によって与えられたタラント(賜物)を用いるように命じています。最後の、羊と山羊をより分けられるお話は、救われた者の生き方、具体的な生活について教えています。神は愛であり義なる神です。それゆえ、神は私たち罪人を愛し、一人も滅びることを望んでおられません。しかし、同時に神の義は罪を犯した人を正しく裁かなければなりません。神はこの二つの性質ゆえに、ご自身の中で葛藤がありました。この二つ性質を満たすためには、ご自身の犠牲以外にはありませんでした。それゆえ、神はご自身のひとり子イエスを私たちの罪の身代わりとして十字架の上で裁かれたのです。また、イエスは自ら進んで十字架の上で、私たちの罪の身代わりとして、いのちを犠牲にされたのです。ノアの箱舟は私たち罪人への警告です。そして、イエス・キリストの十字架は、私たち罪人への福音です。福音とは良き知らせの訪れという意味です。今は恵みの時代です。イエス・キリストによって救いの道が備えられました。天の御国は私たちの良い行いや正しい人格によって入るところではなく、イエス・キリストによる贖い、神の恵みによって神から与えられるものなのです。