マルコの福音書8章27節~34節
マルコの福音書7章24節で、イエスがシリア・フェニキア地方の女性の娘から悪霊を追い出された後、イエスは耳が聞こえず、口のきけない人を癒されました。また、8章に入って、七つのパンと小魚で四千人以上の人々の空腹を満たされました。その後、パリサイ人たちがイエスに天からのしるしを求めた話が記され、イエスは彼らのしるしを求める信仰に失望されたとあります。また、イエスは弟子たちがパンの奇跡を通しても悟ることが出来ないことを戒められました。また、22節で、目の見えない人の目を開かれました。
1、イエスを誰と信じるのか
マルコの福音書8章27節「さて、イエスは弟子たちとピリポ・カイサリアの村々に出かけられた。その途中で、イエスは弟子たちにお尋ねになった。『人々はわたしをだれだと言っていますか。』」28節「彼らは答えた。『バプテスマのヨハネだと言っています。エリヤだと言う人たちや、預言者の一人だと言う人たちもいます。』」と答えました。イエスは一般の人々の自分に対する意見を弟子たちに尋ねました。どの答えも人間を越えた答えではありません。これが一般の人々のイエスに対する評価です。29節「するとイエスは、彼らにお尋ねになった。『あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。』ペテロがイエスに答えた。『あなたはキリスト』です。」また、マタイの福音書16書16節「シモン・ペテロが答えた。『あなたは生ける神の子キリストです。』」と答えています。17節「すると、イエスは彼に答えられた。『バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。』」イエスはペテロが答えた「あなたは生ける神の子キリストです。」という信仰告白を褒めました。しかし、それは「血肉」人間の考(彼自身の考え)ではなく、父なる神によるものだと言われました。また、イエスは18節「そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロ(岩)です。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。」」と言われました。ここでイエスが言われた、「岩の上」とは、ペテロの信仰告白の上にという意味です。ペテロの信仰告白は彼自身から出たことばではありません。父なる神からのことばです。ペテロはまだイエスが誰であるか理解できていませんでした。それゆえ、イエスはこのように弟子たちに言われました。マルコの福音書30節「するとイエスは、自分のことをだれにも言わないように、彼らを戒められた。」とあります。弟子たちも群衆も「メシア」という言葉の意味を、この地上にダビデ王の時代のような国を再建することを期待していたからです。それゆえイエスは彼らに言われました。31節「それからイエスは、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。」とあります。この時、弟子たちにはこのことばを理解できませんでした。それゆえ、ペテロはイエスに言いました。32節「するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。」とあります。ペテロはイエスが捕らえられ殺されるなど信じることができませんでした。それで、ペテロはマタイの福音書16章22節「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」とイエスをいさめたのです。マルコの福音書8章33節「しかし、イエスは振り向いて弟子たちを見ながら、ペテロを叱って言われた。『下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことをおもっている。』」と言われました。ペテロはイエスのことを思って「そんなことが起こるはずがありません。」と言いましたが、それは、人間イエスを思ってのことで、その事は神の計画を妨げる考えであり、サタンの考えだとイエスはペテロをいさめたのです。
2、自分の十字架を背負ってイエスに従う
そして、マタイの福音書もマルコの福音書もルカの福音書も、イエスが自分の十字架を負てわたしに従うように教えています。34節「それから、群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた。『だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨てて、自分の十字架を背負って、わたしに従って来なさい。』」ここで言われている「十字架」とは、生まれつきの障がいや生まれた環境のことではありません。イエスはこの十字架を神の御心と信じて背負って歩もうとしています。決して自分のためではありません。それゆえ、イエスが弟子たちに言われた十字架とは、神から与えられた「使命」と考えられます。以前は自分中心であり、自分のために生きてきました。ご利益宗教もそれと同じです。しかし、キリスト教は、自分中心の生活ではなく、神中心の生活に生きることを意味しています。そのために神は私たちにふさわしいタラント(能力)を与えてくださいました。イエスのたとえ話で、五タラントを主人から預けられたしもべは、さらに五タラント儲けて主人に喜ばれました。二タラント預かったしもべも二タラント儲けて主人に喜ばれました。しかし、一タラント預かったしもべは主人を怖れ、一タラントを地に隠してしまいました。そして、主人に一タラント返しましたが、主人に叱られています。なぜなら、彼が主人から預かったタラントを働かせなかったからです。神は私たちを祝福するためにタラント(能力)を与えてくださいました。その能力は人によって違います。しかし、神が見られるのは、その能力の大きさではなく、それをどのように働かせたかです。私たちは異なった賜物が与えられていますが、どれも、神から与えられたすばらしい賜物(能力)です。十字架を背負うとは、はじめに自分を捨てなければなりません。自分の利益を考えていたら、十字架を背負うことは出来ません。自分の願いや自分の計画を捨てることが第一です。それから、神の御心に従って生きることです。
パウロはクリスチャンにならなければ、有名なユダヤ教の学者に成れたでしょう。しかし、彼は自分の間違いに気づき、悔い改め自分の罪が赦されたことを知りました。そして、神の御心が異邦人にイエス・キリストのことを宣べ伝えることを知った時、すべてを捨てて、イエス・キリストのことを世界中に伝えることに生涯を費やしました。これこそが、ペテロに与えられた十字架でした。彼はそのために多くの苦しみを受けました。しかし、その苦しみの中にも神はおられ、神は彼を助け祝福されたのです。
マタイの福音書11章の最後に有名なことばが記されています。28節~30節「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」と言われました。「くびき」とは馬と馬を繋ぐ道具です。イエスは「わたしのくびきを負ってわたしから学びなさい。」と言われました。「くびきを負う」とは、十字架を負うと同じことではないでしょうか。それゆえ、十字架を負うとは一人で苦しんで十字架を負うことではなく、キリストが共に担うという意味もあるのではないでしょうか。「十字架」を負うという事は苦しみが伴います。また、恥ずかしい事かもしれません。しかし、イエスは私たちに「自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」と言われました。神は私たちと共に歩みたいと願っておられます。私たちひとり一人に与えられた十字架は何でしょうか。心静めて考えたいと思います。