ペテロの生涯(6)最初の奇蹟

使徒の働き3章1節~16節

イエスが弟子たちに約束された聖霊が下ると、彼らは自分たちの知らない外国語で神の大きな御業を語り始めました。ユダヤ人たちはその光景を見て、弟子たちが酔っぱらっていると彼らを嘲りました。ペテロはその批判を受けて、彼らは酔っぱらっているのではなく、旧約聖書のヨエル書に約束された聖霊が弟子たちに注がれたのだと説明しました。また、ペテロはこの時に集まった群衆に対して、イエス・キリストの十字架の死と復活について大胆に説教をしました。人々は彼の説教に心刺され、その日に三千人が洗礼を受け弟子に加えられました。今まで、人々の目を恐れて隠れるように祈っていた人々が、聖霊によって変えられ、多くの人々がキリスト者として生まれました。それは、当時の人々(ユダヤ人たち)にとって驚くべき出来事でした。

使徒の働き3章で、ペテロとヨハネが午後三時の祈りの時間に宮に上ると、そこには「美しの門」と呼ばれる所があり、そこに生まれつき足の不自由な人が運ばれ、人々に施しを求めて座っていました。彼はペテロとヨハネを見て施しを求めました。4節~8節「ペテロは、ヨハネとともにその人を見つめて、『私たちを見なさい』と言った。彼は何かもらえると期待して、二人に目を注いだ。すると、ペテロは言った。『金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。』そして彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼のくるぶしが強くなり、躍り上がって立ち、歩き出した。そして、歩いたり飛び跳ねたりしながら、神を賛美しつつ二人と一緒に宮に入って行った。」人々はこの出来事に驚き、多くの人々が弟子たちのところに集まって来ました。そこで、ペテロはこの群衆に対して二度目の説教を語りました。まず、ペテロはこの生まれつき足の不自由な人が歩けるようになったのは、私たちの力や敬虔な信仰によるものでないことを証言し、この奇蹟はアブラハム、イサク、ヤコブの神であり、その父祖の神が栄光を与えたイエス・キリストの御名によると告げたのです。また、そのイエスをあなたがたは十字架に付けて殺したが、このイエスを神は死者からよみがえらせた。自分たちはその証人であると宣言しました。16節「このイエスの名が、その名を信じる信仰のゆえに、あなたがたが今見て知っているこの人を強くしました。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの前で、このとおり完全なからだにしたのです。」と語り、悔い改めて洗礼を受けるように語りました。ペテロの説教を聞いて、男性だけで五千人の人々が信じたとあります。この奇蹟の出来事で大切なことは、何によって彼の足が癒されたかということです。ペテロは、初めにこの男性に対して6節「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって立ち上がり歩きなさい。」と言われました。「イエス・キリストの名」とは何を指しているのでしょうか。「名」とはその人自身、その人の権威を表します。「名を借りる」と言えば、その人の権威を借りることであり、その人が保証してくれることを指します。それゆえ、一般的には、信頼がなければ「名を貸す」と言うことはありません。イエスが弟子たちから離れ天に昇って行く日が近づいた時、イエスは弟子たちに言われました。ヨハネの福音書16章23節「わたしの名によって父に求めるものは何でも、父はあなたがたに与えてくださいます。」24節「今まで、あなたがたは、わたしの名によって何も求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けます。あなたがたの喜びが満ちあふれるようになるためです。」と言われました。イエスは私たちを信頼して「御名によって」祈ることを許してくださいました。それゆえ、私たちは「イエス様のお名前によって祈ります」と言って祈りを終えます。また、ペテロは群衆にこのように言われました。使徒の働き3章16節「このイエスの名が、その名を信じる信仰のゆえに、あなたがたが今見て知っているこの人を強くしました。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの前で、このとおり完全なからだにしたのです。」イエスの御名を与えるとは、イエスの権威を与えると同じ意味があります。イエスは弟子たちを信頼し、ご自分の権威を弟子たちにお与えになられたのです。イエスが天に昇られる前、イエスは弟子たちの前で数々の奇蹟を行われました。弟子たちはその奇蹟を身をもって体験した人たちでした。イエス・キリストは天に昇って行かれましたが、その代わりに、弟子たちに約束の聖霊を与えてくださいました。弟子たちは聖霊の力によって、人々を癒し、奇蹟を行う力を得たのです。私たちも弟子たちと同じように聖霊をいただいた者です。そして御名によって祈ることを許された者です。私たちはペテロのように、直接、病を癒したり、奇蹟を起こすことができないかもしれません。しかし、私たちは、イエスの弟子たちと同じように、イエスの御名によって力を与えられた者です。

牧師をしていると、人の死と関わることが多くあります。クリスチャンの死に神の栄光を見ます。一人ひとりが自分の死を受け入れ静かな最後を迎えるからです。それは、一人ひとりが信仰によって永遠のいのちを持ち、天国へ入ることを確信を持っているからです。その確信はどこから来るのでしょうか。イエスに対する信仰の結果です。私たちは自分の信念とか努力で自分の死を静かに受け入れることはできません。多くの人々は、死の恐怖と神の裁きを恐れを持って迎えます。それは、死後のことをだれも知ることができないからです。しかし、クリスチャンはイエスのことば(約束)によって、天の御国が自分のものとなっていることを知っているので、死を恐れることはありません。また、イエスの御名は希望を失った人を助ける力があります。東北大震災の時、多くの人々が家族を失い、仕事を失いました。その時、多くのクリスチャンがボランティアとして、東北に赴き、復興の手助けをしました。ただ、家を建て直したり道路を整備するだけではなく、多くの人々の心のケアも行われました。ある人は自分の愛する家族を失い、自分を責めて自分を許せない人たちもいました。ボランティアの人々は彼らの心に寄り添い、彼らの話を聞き続けました。それによって多くの人々の心が癒されたという証しを聞きました。また、その中から、イエス・キリストに興味を持ち洗礼を受けた人たちもいたと聞きました。これも、イエスによる癒しと奇蹟だと思います。イエスの御名によって今も、奇蹟や癒しが行われています。それは、イエスの御名がペテロやヨハネのような使徒たちだけではなく、私たちにも与えられているからです。私たちはどれほど大きな権威と力を与えられているでしょうか。それほど、イエス・キリストが私たちを信頼しているからです。ペテロは足の不自由な人に6節「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」と言われました。私たちもペテロと同じように、金銀はありません。しかし、イエスの御名(権威)は同じように神より与えられた者です。これからもイエスの御名によって祈りたいと思います。