「ヨブの信仰とご利益信仰」ヨブ記1章6節~12節
世界中には、様々な宗教があり、そのスタイルもまた様々です。また、その多くはご利益宗教と呼ばれるもので、信じる目的がお金儲けや病気の癒しを強調する宗教が多く存在します。ヨブ記の主題は「義人の苦しみ」についてです。多くの人々が、悪いことをした者は神様から罰として苦しみを受け、良いことをした人は神様から報いとして祝福が与えられると考えています。それを「因果応報」という言葉で表しますが、実は、苦しみというのは、悪いことをした人だけに与えられるものではありません。また、正しいことをする人だけが祝福を受けるわけではありません。そこに社会の矛盾があり、簡単には割り切ることができない世界があります。
ヨブ記の1章1節から5節にヨブについての人となりが紹介されています。要約すると、ヨブは大変なお金持ちで、神を恐れ、神に生贄を捧げる信仰深い人であることが記されています。また、8節で神様がサタンにヨブを紹介することばも、ヨブが正しい人であることを証明しています。8節「おまえはわたしのしもべヨブを心に留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にいないのだが。」その神様のことばに異論を宣べたのがサタンです。サタンの言い分が9節から11節にありますが、要約すると「ヨブが神様を恐れ、生贄をささげているのは、神が彼を守り、祝福をしているからです。それはご利益宗教で、彼の持ち物を奪うならば、彼はすぐに神様をのろうにちがいありません。」と言うものです。神様はヨブの信仰がサタンが言うようにご利益信仰ではないと信じていますが、それを証明するためには、実際に、ヨブが苦しみに遭って見なければご自分の正しさを証明することはできません。そこで、神様はヨブの信仰の正しさを証明するために、ヨブをサタンの手に渡されたのです。その結果、どうなったでしょうか。13節から19節でヨブが財産と家族をどのように失ったかが書かれています。そして、20節と21節にその時のヨブの状況が記されています。彼は、上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝し、「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」と言いました。22節「ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった。」とあります。ここに、ヨブの信仰がご利益信仰ではないことが証明され、神様の正しさが証明されました。
しかし、サタンはそれで引き下がりませんでした。4節5節「皮の代わりには皮をもってします。人は自分のいのちの代わりには、すべての持ち物を与えるものです。しかし、今あなたの手を伸べて、彼の骨と肉とを打ってください。彼はきっと、あなたをのろうに違いありません。」サタンは「財産や家族だけでは不十分です。彼の健康を打ち大病を与えるならヨブはあなたをのろうでしょう。」と言いました。またしても、神はご自分の正しさを示すためにヨブの信仰がご利益宗教ではないことを証明しなければならなくなりました。神はヨブの信仰の正しさを証明するために、もう一度、ヨブをサタンの手に渡しました。しかし、神はサタンに、ヨブの命には触れるなときつく戒められました。ヨブの苦しみが7節と8節にあります。「ヨブの足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物で彼を打った。ヨブは土器のかけらを取って自分の身をかき、また灰の中にすわった。」とあります。「灰の中」とはゴミ捨て場を意味し、ヨブがごみのように人々から忌み嫌われたことを表しています。ヨブの妻はこのようになったヨブに対して、9節「神をのろって死になさい。」と暴言を吐きました。それでもヨブは彼女に言いました。10節「あなたは愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けているのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」ヨブはこのような苦しみの中でも、神をのろうことばを口にしませんでした。このことを通して、ヨブの信仰がご利益信仰ではなく、神が認める正しい人であったことが証明されたのです。
ここでお話が終わっていたならば、この出来事は聖書の中に入れられることはなかったでしょう。実際、ヨブ記の内容は、ここからさらに深い内容へと発展していくのです。そのことについては次回にお話します。今日のお話で大切なことは、サタンが言うように、私たちも「ご利益信仰」になりやすいということです。それは、キリスト教においても同じです。私たちは、病のいやしのために神様に祈ります。しかし、その祈りが、「祈ればどんな病でも癒されます。」と言うなら、それはご利益宗教になります。私たちは病のいやしのために神様に祈りますが、最終的な判断は神様にゆだねなければなりません。病がいやされることが神様の御心の時もありますが、いやされない時でも神様の御心として受け入れる信仰が必要です。ある教会にいやしの賜物があるという有名な牧師がいました。実際にその牧師の祈りによっていやしの奇蹟が行われていました。ところが、中にはいやされない人も多くいました。その牧師は、彼らに対して、「あなたの祈りが足りないからです。」「あなたの信仰がたりないからです。」と、いやされない理由をその人の祈りや信仰の責任、その家族の祈りや信仰の足りなさの責任にしました。確かにどんな病でも祈れば治ると宣伝するなら、いやされない原因を明らかにしなければなりません。それゆえ、その原因を本人の信仰の足りなさや、家族の祈りの足りなさに責任転嫁するのです。
また、教会が天国に入ることだけを強調するなら、それもご利益宗教になってしまいます。私たちは天国に入るためにイエス様を信じるわけではありません。あくまでも、天国へ入ることは恵みであり、それが目的になってしまえば、天国に入ることがご利益となってしまいます。私たちがクリスチャンになったのは、神の子であるイエス様が人となられ、十字架の上で私たちの罪の身代わりとして死んでくださったからです。神様はそのことを通して私たちに神の愛を表してくださいました。私たちはその愛に対してどのように応えていくのか、それが私たちの信仰です。天国に入ることのすばらしさを強調することによって、イエス様の十字架の死の意味を薄めたり、小さくするならば、それは、キリスト教ではなく、天国教になってしまいます。「南無阿弥陀仏」と唱えるなら誰でも極楽に行くと言うのと同じことです。天国に入ることの素晴らしさを伝えることは大切なことですが、それが、第一になるなら、キリスト教ではなくなってしまいます。あくまでも、私たちが伝えなければならないことは、イエス様の十字架の死と復活です。天国に入ることは神様から与えられる恵みです。キリスト教の中心は、神の子が人となり、私たちの身代わりとして十字架で死なれ、三日目に復活されて、私たちの救いを完成されたことです。神様の愛ゆえに、私たちは罪が赦され、天国に招かれる者になりました。また、神様の愛ゆえに私たちは神様との関係を回復し、神様と親しい関係を回復することができたのです。