ヨブ記42章1節~6節
聖書を読む時に、疑問を持って読むことは、聖書を理解するうえで大切なことです。聖書は、その言葉を暗記することに意味があるのではなく、自分自身の生活に適応させることが重要なことです。たとえば、創世記のアブラハムの話も、なぜ、アブラハムはそのような行動をとったのか、もし、自分ならどうするかを考えて聖書を読むなら、神への理解が深まり、神との親しい関係を深めることになります。
今日、共に考えたいのは、ヨブの苦しみについてです。聖書を読むなら、ヨブについてこのように記されています。1節「ウツの地に、その名をヨブという人がいた。この人は誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっていた。」とあります。また、彼は東の人々の中で一番の有力者であったとあります。また、彼は子どもたちが罪を犯したのではないかと、彼ら一人一人のために全焼の生贄をささげていたとあります。それほどヨブは神に対して誠実に生きて来ました。神もサタンに対して8節「おまえは、わたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように、誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっている者は、地上には一人もいない。」とヨブの正しさを神ご自身が証明しています。しかし、サタンはそうは思っていませんでした。言って見れば、あなたの考え方は間違っていますよと、神のヨブに対する評価が間違っていると指摘したのです。サタンのヨブに対する評価は以下のようです。9節~10節「ヨブは理由もなく神を恐れているのでしょうか。あなたが、彼の周り、そしてすべての財産の周りに、垣を巡らされたのではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地に増え広がっているのです。しかし、手を伸ばして、彼のすべての財産を打ってみてください。彼はきっと、面と向かってあなたを呪うに違いありません。」サタンはヨブの信仰をご利益信仰だと批判したのです。神にしてみれば、自分の正しさを証明しなければなりません。そこで神は、ヨブの正しさを信じてサタンの挑戦を受けられたのです。そこで、神はサタンに彼自身には手を出さないように条件を付けて、神はヨブをサタンの手に委ねられたのです。そして、ヨブは、一度に財産と子どもたちを失いました。この時、ヨブはサタンが言うように神を呪ったでしょうか。彼はこのように言いました。20節「私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」ヨブは、子どもたちと財産を失っても、神を呪うことばを口にしませんでした。神のヨブに対する評価が正しいことが証明されたのです。しかし、サタンはそれで引き下がりませんでした。サタンは神に言いました。2章4節5節「皮の代わりには、皮をもってします。自分のいのちの代わりには、人は財産すべてを与えるものです。しかし、手を伸ばして、彼の骨と肉を打ってみてください。彼はきっと、面と向かってあなたを呪うに違いありません。」この時も神はサタンに、彼のいのちには触れないように忠告してヨブをサタンに委ねました。その結果、ヨブは悪性の腫物で苦しめられました。彼の妻は、ヨブに向かって9節「あなたは、これでもなお、自分の誠実さを堅く保とうとしているのですか。神を呪って死になさい。」と暴言を吐きました。ヨブは彼女に言いました。10節「あなたは、どこかの愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けているのだから、わざわいをうけるべきではないか。」そう言ってヨブは神を呪うことばを口にしませんでした。ここでも、神の正しさが証明されたのです。
しかし、話はそれで終わりませんでした。今度は、ヨブの友人たちがヨブを苦しめることになりました。彼らは、ヨブのことを心配して彼を慰めに来たのですが、初めは、ヨブの状態に驚き、声をかけることができませんでした。ところが、ヨブの言った一言によって彼らはヨブの信仰を攻撃し始めたのです。友人たちの神への信仰は、「因果応報」の考え方を基としていました。彼らの考えでは、神は良いことをした者には祝福を与え、悪いことをした者には報いとして苦しみを与える神でした。その考えを基にすると、ヨブの苦しみは罪の結果であって、自分の罪を認めて悔い改めるならば、神は必ずまた、祝福を与えると言う考えです。しかし、ヨブはその考えを受け入れることができませんでした。なぜなら、ヨブには、これほどの苦しみを受ける罪が見当たらないからです。それで、ヨブは、自分の正しさを主張するあまり、この苦しみが不当な苦しみであり、神が間違っていると、自分の正しさを主張するあまり、神を不正としてしまう過ちに陥ってしまったのです。このヨブと友人たちとの議論は平行線になります。最後に神が登場し、ヨブに対して、神ご自身の知恵と力を示し、神が人間の知恵では理解できない存在であり、ヨブが自分の正しさを主張して神を不正なものとする愚かさを示されたのです。先ほどの、42章1節から6節はヨブの悔い改めのことばです。
ここで、考えたいことは、神はご自分の正しさを証明するために、サタンにヨブを苦しめることを認められたのでしょうか。初め、私はそのように考えていました。サタンの策略によってヨブが選ばれ、神の正しさを証明するためにヨブは苦しみを受けたのだと。しかし、本当にそうでしょうか。神は、ご自分の正しさを証明するためにヨブが苦しめられることを許可したのでしょうか。私はそうではないと思います。神はこの苦しみを通してヨブに何かを教えたかったのではないか。つまり、神はヨブのためにあえて、サタンがヨブを苦しめることを許可したのではないかということです。そのカギとなる言葉が42章5節のことばです。「私はあなたのことを耳で聞いていました。しかし今、私の目があなたを見ました。」
とのヨブの告白です。考えてみれば、ヨブの時代の人々は、ヨブの友人たちのように、神とは「因果応報」の神だと信じていたわけです。「因果応報」の神では、人間との人格的交わりはありません。それは、ただ、良いことをすれば祝福を与え、悪いことをすれば罰を与える神です。神は、そのような血の通わない機械的な神でしょうか。聖書が私たちに伝える神は、人格を持ち、私たちに近づいてくださる神です。今までのヨブと神との関係は、距離や壁がありました。しかし、ヨブはこの苦しみを通して、神を身近に感じることができたのです。そのことは、私たちが苦しみを通してでなければ学ぶことができないできごとです。ただ、気を付けなければならないことは、苦しみの時に、苦しい状況だけに目を留めていると、周りを批判するだけで、何の益にもなりません。しかし、苦しみの時ですら、神の愛を信じ、神の愛に目を留める時、私たちは神を身近に感じることができます。旧約聖書で言えば、アブラハムやヤコブがそうです。新約聖書で言えば、ペテロやステパノがそうです。最後に、聖書のことばを見ると、詩篇119篇71節「苦しみにあったことは、私にとって幸せでした。それにより、私はあなたのおきてをまなびました。」という言葉があります。また、
ローマ人への手紙8章28節「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」とあります。大切なことは神との信頼関係です。どのような状況でも神の愛は変わらないと言う信仰が、私たちの信仰を強めてくださるのです。確かにヨブはサタンから苦しみを受けました。しかし、彼はこの苦しみを通して、真実の神との信頼関係を得ることができたのです。神がヨブに与えたかったのはこの祝福ではなかったでしょうか。しかし、神は、私たちにも同じ祝福を与えたいと願っています。試練や苦しみは喜ばしいものではありませんが、時として、苦しみを通してでなければ得ることができないものもあります。神は苦しみの後に、脱出の道と祝福を備えてくださる神なのです。