主を愛せよ

「主を愛せよ」マタイの福音書22章34節~40節

新しい一年が始まりました。今年も皆さんと共に神様を礼拝できますことを感謝します。聖書は旧約聖書、新約聖書合わせて全部で66巻あります。その中でどれが一番大事かと聞かれると難しい質問になります。全て同じように大事かというと、実際的にはそうではありません。かと言って、どれとどれを選ぶというものでもないと思います。66巻全てが神様のことばですから、全部を通して読むということが、神様を知るうえで大切なことです。聖書通読は大変なことですが、毎年、続けることによって次第に力を現すものです。困ったときに聖書を開いて、気に入った言葉が見つかると、それが神様の御心だと誤解する方がおられます。それは、たまたま目についた聖書箇所で、神様の御心でもなんでもありません。しかし、時々、私たちが困ったときに、心の中に、御ことばがうかんでくる時があります。また、それによって、励ましや、助けを受ける時があります。それこそが、神様のことばであり、神様の導きです。そのために、私たちが御ことばを貯えておかなければ、神様が御心を示されても理解することはできません。そういう意味で、御ことばに接し、御ことばを中心に生活することが、私たちの人生を豊かにすることに繋がるのです。

先ほど、マタイの福音書22章34節から40節までをお読みしました。34節で「イエスがサドカイ人たちを黙らせた。」と言うのは、その先の23節から33節のお話で、サドカイ人たちがイエス様の知識を試そうとして、復活について質問した個所です。ここで、サドカイ人とパリサイ人という人々が登場します。当時のユダヤの国はローマ政府に支配されていましたが、ローマ政府はユダヤ人たちに対して、ある程度の自治権を認めていました。そこで、ユダヤの人々は、国会に当たる最高議会(サンヘドリン)によって、国を運営していたのです。最高議会の人数は71人で構成され、選挙で議員が選ばれていました。また、この最高議会のメンバーは、ローマ政府よりのサドカイ派(祭司階級で、お金持ち)と、ローマ政府に反対するパリサイ派(旧約聖書の戒めを重んじる人々)の二つに分かれていました。そして、34節からの質問は、この律法(旧約聖書)の専門家、パリサイ人がイエス様の知識を試すために行った質問なのです。36節「先生、律法の中で、大切な戒めはどれですか。」当時、サドカイ人とパリサイ人との間で、律法の中でどれが大切な戒めであるかという議論がなされていました。また、そのことで、サドカイ人とパリサイ人の意見が対立していたのです。パリサイ人たちは、イエス様の律法の理解を試すためにこの質問をイエス様に問いかけたのです。イエス様は、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」という、旧約聖書の申命記6章5節のことばを選ばれました。この答えは、パリサイ人たちも同意する答えでした。また、イエス様はさらに、もう一つの聖書の言葉を選ばれました。39節「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」これは旧約聖書レビ記19章18節のことばです。ルカの福音書10章25節からの場面を見ると、律法学者(パリサイ人)も同じ意見であることがわかります。しかし、ここで、律法学者はさらに、イエス様に、自分の隣人は誰であるかを問いかけました。そこで、イエス様は有名な良きサマリヤ人のたとえ話を話されたのです。このたとえ話の中で、祭司とレビ人が登場します。祭司とレビ人は神殿で奉仕するために、自分を清く保たなければなりませんでした。そのため、汚れた者や罪人に近づいてはならないと戒められていたのです。ここに野で強盗に襲われた人が倒れていました。祭司とレビ人は自分の清さを保つために、倒れた人を見て見ぬふりをして反対側を通って行ったのです。サマリヤ人はユダヤ人に嫌われている民族です。イエス様はここで、ユダヤ人に嫌われているサマリヤ人を登場させ、彼が倒れた人を助け介抱したお話にしました。そして、三人の中で、誰が、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますかと、律法学者に問いかけたのです。彼は「その人にあわれみをかけてやった人です。」と答えました。また、イエス様は彼に言われました。「あなたも行って同じようにしなさい。」実は、これこそがパリサイ人たちの問題でした。彼らは、律法(旧約聖書)を研究し、どうしたら律法を守ることができるのかに熱心でした。ところが、彼らは自分を清く守るために、罪人や貧しい人々を無視していたのです。また、彼らは、イエス様がそのような人々と親しくなることを快く思っていませんでした。彼らの信仰は自己中心となり、自分が人々から褒められる者になることを、望むような信仰になっていたのです。

では、私たちはどうでしょうか。私たちは、自分の利害や感情を越えて、隣人を愛することができるでしょうか。実は、これは大変難しいことです。それゆえ、イエス様は最初に、マタイの福音書22章37節「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」と言われたのです。人間の力や努力で、隣人を愛することはできません。私たちが、隣人を愛することができるのは神様の力が必要です。神様との親しい関係ができて初めて、私たちは隣人を自分自身のように愛することができるのです。私たちは何のために聖書を読むのでしょうか。自分の教養を高めるためでしょうか。人から尊敬される人になるためでしょうか。それであるなら、当時の律法学者パリサイ人と同じことです。私たちが聖書を読むのは、神様を知り、神様の御心に合った歩みをするためです。私たちは鏡を見ることによって自分の状態を見ることができます。それと同じように、私たちが聖書を読むことによって、自分の現在の状態を知ることができるのです。鏡は、私たちの外側しか見ることはできません。しかし、聖書の御ことばは、私たちの心の中を取り扱います。聖書は神様のことばです。御ことばに照らしあえば、すぐに、自分の状態を見ることができます。2016年が始まりました。今年、私たちは真剣に御ことばに向き合い、自分の歩むべき道をしっかりと見つめて歩いて行きたいとおもいます。