人を活かす神との出会い

「人を活かす神との出会い」ヨハネの福音書9章1節~7節

最近テレビドラマが不作で、ドラマの時間をバラエティー番組に変更する局が増えたという新聞の記事を読みました。確かに、最近話題になるドラマが少なくなって来ました。その中でも人気があるのが「天皇の料理番」というドラマです。主人公は農家の次男坊の秋山篤蔵という男です。彼は何をやっても仕事が長続きせず。家族の問題児となっていました。そんな彼が、西洋料理と出会い、こんなうまいものを自分も作ってみたいと西洋料理にのめり込んでいき、フランス料理を勉強するために東京に出て、一流レストランで修行を始めました。また、そのレストランのシェフとの出会いが彼を変え、成長し、本場フランスへ渡り、フランス料理を勉強し一流シェフへと成長する姿を描いたドラマです。今日、ここでお話ししたいことは、もし西洋料理と出会っていなかったなら、彼の人生はどうなっていたかということです。彼がこのレストランのシェフと出会わなかったら、果たして彼は、あれほど料理人として成長したでしょうか。

私たちには、人生の分岐点、大切な出会いと言うものがあります。人との出会いが人生を変えるとしたら、神様との出会いはどれほど私たちの人生を変える力があるでしょうか。聖書の中にはそのようなお話しがたくさんありますが、今日はその中から、二人の人について学びます。

1、生まれつき盲人の男性(ヨハネの福音書9章1節~7節)

イエス様が道の途中で生まれつきの盲人に目をとめられました。それを見て弟子たちがイエス様に質問しました。2節「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」彼が盲目という障がいを持って生まれたのは、彼が神様に罪を犯したからか、それとも、彼の両親が罪を犯したからこのような障がいを持って生まれてきたのですかという質問です。日本でも、重い病気や障がいを持って生まれた場合、先祖のたたりではないかと考える時代がありました。彼の場合、生まれつきですから彼の罪ではないことは明らかです。では、誰が罪を犯したから、彼が盲目に生まれたのかが問題です。イエス様は弟子たちにこのように言われました。3節「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現されるためです。」イエス様は彼が盲目に生まれたのは彼の罪でも両親の罪でもないと言われました。障がいを持って生まれることは決して罪の結果ではないと宣言されたのです。そして、イエス様は彼が盲目に生まれた理由を「神のわざが現されるためです。」と言われたのです。イエス様は彼の目に泥を塗り、シロアム(遣わされた者)の池に行って、目を洗いなさいと言われました。彼がシロアムの池に行って目を洗うと見えるようになったのです。当時、盲人の目を開くことは神のみわざと信じられていました。彼が、イエス様の言葉に従ってシロアムの池で目を洗うことによって彼の目が開かれ、イエス様が神様から遣わされた者であることを彼は証明したのです。もし、彼がイエス様と出会わなかったら、彼の人生はどうなっていたでしょうか。また、彼がイエス様の言葉に従わなかったら彼の人生は変わっていたでしょうか。

2、38年間病に苦しむ男性(ヨハネの福音書5章1節~9節)

イエス様がベテスダの池(あわれみの家)と呼ばれる所で一人の男性に声をかけました。この池の周りには彼の他に大勢の病人、盲人、やせ衰えた者たちが伏せっていました。それは、この池が特別な池で、主の使いが降りて来て、水を動かした後、最初に池に入った者はどんな病でもいやされたと言われていたからです。イエス様は彼の病が長いことを知り彼に「よくなりたいか。」と声をかけました。彼はイエス様に7節「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りていくのです。」と答えました。彼は病を治したくてこの池の周りで伏せっているのです。しかし、ここに伏せっていても自分の病をいやすチャンスはありませんでした。自分で池に降りることもできず、先に誰かが池の中に降りていくためです。しかし、彼には他に希望がなく、仕方なくここに伏せっているのです。そんな彼にイエス様が声をかけてくださったのです。彼の望みは、池の水が動いた時、イエス様に自分を担いで最初に池に入れてもらうことでした。しかし、イエス様は彼に別の命令を言われました。8節「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」9節「すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。」とあります。どうして、彼は急に歩けるようになったのでしょうか。彼が、イエス様の言葉を信じたからです。もし、彼がイエス様と出会わなかったら、また、彼がイエス様のことばを信じなかったら、彼の人生は変わっていたでしょうか。この後、何十年もこの池の周りで伏せっていたのではないでしょうか。

この二人の共通点は、イエス様が彼らに近づいて来られたこと。二人がイエス様の言葉に従うことによって人生が変えられたことです。私自身も30年前、神様によって人生が変えられた者です。それまで、自分の人生何をしたらよいのかわからずに、その日その日を無意味に過ごしてきました。しかし、神様が私に近づいて来てくださり、自分は偶然に生まれたものではなく、神様の特別な計画があって生まれたことを知らされたのです。また、神様は個人的に私を愛し、共に人生を歩んでくださる方であることを知りました。私は本当の神様と出会い、神様と共に歩むことを決心したのです。私だけではなく、今も、イエス様は聖書を通して、私たちに近づいて、声をかけて下さいます。私たちは、聖書の言葉に耳を傾け、イエス様の言葉に従って生きる者です。ある人がキリスト教は宗教ではないと言いました。私もそう思います。キリスト教は、イエス様と出会い、イエス様と共に歩むことがキリスト教です。そのために聖書を読み、祈り、礼拝に出席するのです。聖書の有名な言葉に、求めなさい。そうすれば与えられますというイエス様の言葉があります。イエス様は私たちの人生の中で出会ってくださいます。その時、私たちが恐れず、神様のことばに従うなら、神の力が私たちの人生を変えてくださるのです。