人間の罪と神による贖いの歴史

「人間の罪と神による贖いの歴史」創世記2章15節~17節

 聖書の中心は、人間の罪とその人間の罪を贖う神様の愛です。これを専門のことばで表現すると「救済史」「救済の歴史」と呼びます。神様は六日間ですべての物を創造されました。そして、そのすべての創造は非常に良かったということばで創世記の1章を終えています。神様の創造の御業は完璧で、この世に罪も存在しませんでした。また、神様は人間(アダム)をエデンの園に住まわせ、一つだけ彼に戒めを与えました。創世記2章16節17節「神である主は人に命じて仰せられた。『あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。』」そして、創世記3章に入って、蛇(サタン)が女(エバ)を誘惑しました。誘惑のことばは創世記3章1節「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は言われたのですか。」でした。それに対して彼女はこのように答えました。2節3節「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」彼女の答えは、神様の戒めに自分の考えを加えた不確かな答えでした。蛇は彼女に言いました。4節5節「そこで蛇は女に言った。『あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。』」誘惑の本質は、神のようになりたいという人間の心に巣くう欲望を誘惑することでした。6節「そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので夫も食べた。」その結果、二人に何が起こったでしょうか。二人はすぐに死ぬことはありませんでした。また、二人の目は開かれましたが、神のようにもなれませんでした。お互いが裸であるのがわかり、いちじくの葉で腰のおおいを作り、神様から身を隠したとあります。罪を犯した子供が父親に怒られるのを恐れ、身を隠すのに似ています。以前の二人は神様と親しい関係を持っていました。ところが、罪を犯した二人は、神様を恐れる者となり、神様との親しい関係を失ってしまったのです。

 ここで疑問に思うことは、なぜ、神様は二人を助け、蛇の誘惑を退けなかったのかということです。二人がヘビに誘惑され、善悪の知識の木の実を食べたからこそ、罪が生まれ、人間は罪に支配されるものとなってしまいました。また、その人間の罪の問題を解決するために、神のひとり子イエス様は人として生まれ、十字架に付けられて死ななければなりませんでした。二人が罪を犯さなければ、イエス様も人として生まれなくてもよかったし、十字架で死ぬ必要もなかったのです。その謎を解くカギが、神様の性質にあります。神様は人を信頼する(愛する)対象として、人を創造してくださいました。神は人が蛇に誘惑されても神様の戒めを裏切らないと信頼しておられたのです。その信頼を裏切ったのが人間です。本来、罪を犯した人間はすぐに裁かれて死ななければなりませんでした。しかし、神様はそうはされませんでした。二人に与えられた罰は死ではなく、女性には産みの苦しみ、男性には労働の苦しみをでした。そして神は二人をエデンの園から追い出したのです。また、神様は二人に皮の衣を作り、彼らに着せてくださったとあります。ここに、罪を犯した二人に対する神様の憐れみの気持ちが表されています。

 創世記3章15節は、原始福音と呼ばれる、重要な神の預言のことばです。「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」ここで、おまえの子孫とはサタンを指し、女の子孫はイエス・キリストを指しています。サタンが女の子孫のかかとにかみつくことは、イエス様を十字架で殺すことを預言し、女の子孫イエス様が死から復活することによってサタンの計画を完全に踏み砕くことを表している預言のことばです。

 最初の人、アダムとエバがヘビの誘惑を自ら退けていたら、神の子イエス様が苦しみを受けることはありませんでした。また、罪を犯した二人に対して神様が死という罰を与えていたら、神ご自身が苦しむ必要はありませんでした。神の本質は愛であり、神は、失敗をした人間を滅ぼすことを良しとはされなかったのです。そこで、神様が用いられた計画が、救済の歴史です。神は私たちに救い(神様との信頼関係を取り戻す)のチャンスを与えられたのです。また、それは私たちが理解できるように少しずつ、積み上げるように計画してくださいました。「救済史」とはイエス様によって私たちが救われるように、神様が計画された救いの歴史です。ノアの箱舟の話。アブラハムを通して生まれたイスラエルの民。モーセを通して与えられた礼拝と神の戒め。ダビデによる王国の確立。国の崩壊と再建。ユダヤ教の確立。バプテスマのヨハネの登場。イエス様の誕生。一つ一つが、イエス様の十字架の死と復活のために備えられた神様の計画です。

 罪を犯したのはアダムとエバで、私たちとは関係がないと多くの人々は考えます。本当にそうでしょうか。聖書は、私たちはアダムとエバの子孫で、アダムとエバと同じように罪を犯しやすい性質を受け継いで生まれてくると(原罪)教えています。確かに、人を殺したり、詐欺を犯すような人は少ないかもしれません。しかし、誰であっても、罪を一度も犯したことがないと神様の前で誓える人はいないはずです。私たちは、人には見えない小さな罪を繰り返し犯し続ける者ではないでしょうか。であるならば、私たちはその罪の問題をどのようにして解決したらよいでしょうか。旧約聖書のイスラエルの民は、神様から与えられた戒めを完全に守ることによって罪の無い正しい人として神様の前に立つことを考えました。しかし、誰がそんなことをできるでしょうか。隠れた心の中の罪は、人には隠すことができても、神様の前に隠すことはできません。イエス様はそんなあわれな私たちのために、自分が人々の罪を背負って苦しみ十字架で死に、私たちの身代わりとなってくださったのです。他に、私たちの罪の問題を解決する方法があるでしょうか。また、罪の無い神が自ら人となり、人々の罪を背負って苦しみを負い、十字架で惨めに死なれた神が他にいるでしょうか。神の愛は、罪人である私たちをも愛するあいです。私たちは、唯一、イエス・キリストを通して、神様との親しい関係を回復することができるのです。