「信仰によって」ヘブル人への手紙11章1節~12節
ヘブル人への手紙の著者は、11章において信仰とは何であるかを教えています。1節「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」6節「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者に報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」と教えています。そして、信仰者として、アベル、エノク、ノア、アブラハム、サラ、モーセ、遊女ラハブ、ギデオン、サムソン、ダビデ、サムエルの名前を挙げています。世界中には無数の宗教があり、信仰にも色々あります。今日は聖書が教えるキリスト教の信仰に付いて考えます。
- 間違った信仰の姿(1)ご利益信仰。(サムエル記第一4章1節~11節)
この出来事を読んで、彼らの信仰とはどのようなものだったでしょうか。彼らはペリシテ人との戦いに敗れ、四千人が死んでしまいました。この大きな敗北に対して、イスラエルの民はどのような行動を取ったでしょうか。4章の3節「なぜ主は、きょう、ペリシテ人の前でわれわれを打ったのだろう。シロから主の契約の箱をわれわれのところに持って来よう。そうすれば、それがわれわれの真ん中に来て、われわれを敵の手から救おう。」その結果、どのようなことが起きたでしょうか。10節11節「こうしてペリシテ人は戦ったので、イスラエルは打ち負かされ、おのおの自分たちの天幕に逃げた。そのとき、非常に激しい疫病が起こり、イスラエルの兵士三万人が倒れた。神の箱は奪われ、エリの二人の息子、ホフニとピネハスは死んだ。」イスラエルの民は以前よりも大きな損害を受け敗北しました。彼らの敗北の原因は何でしょうか。なぜ、神様はイスラエルの民のために戦われなかったのでしょうか。答えは、彼らの信仰がご利益信仰だったからです。ご利益信仰とは、自分の利益のために神様を利用することです。病のいやしや問題の解決のために神様に助けを求めて祈ることは必要なことですが、何がなんでも自分のために病のいやしを求めること、自分のために、条件を出して問題の解決を求めることは、神様の力を利用することになります。イスラエルの民は、契約の箱さえ戦場に持ってくれば、神様が働いてくださり、敵を滅ぼしてくださると一方的に信じて、神の力を利用するために、契約の箱をシロから持ち出してきたのです。これはまさにご利益信仰です。では、イスラエルの民はどうすれば良かったのでしょうか。彼らがまず、なすべきことは「悔い改め」です。なぜ、自分たちが敗北したのかを祈り、どうすれば、神様が自分たちのために働いてくださるかを祈るべきでした。そして、神様に従うとき、神はご自身の栄光を現してくださるのです。
- 間違った信仰の姿(2)盲目的な信仰。(マタイの福音書25章14節~30節)
この個所は、有名なイエス様のタラントのたとえ話です。今日ここで問題にしたいのは一タラント預かったしもべです。彼はなぜ、主人が帰るまでに、預かったタラントを働かせないで、地に隠してしまったのでしょうか。彼はこのように主人に言い訳をしています。24節25節「ご主人様。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたのものです。」結局、彼は役に立たないしもべとして、外の暗闇に追い出されてしまいました。このしもべのまちがいは、自分の主人が、「蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だと」誤解していたところにあります。五タラント、二タラント預かったしもべに対する主人の態度を見るなら決して彼が思っていた主人ではないことがわかります。このように、私たちが神様を誤解したり、正しく理解していない場合、このしもべのように間違った行動をしてしまいます。神様は私たちが神ご自身を理解できるように聖書を与えてくださいました。私たちの信仰は「いわしの頭も信心から」というように内容のない盲目的な信仰ではありません。
では、私たちの救いの根拠はどこにあるのでしょうか。それは、神の子イエス様が人として生まれ、私たちの罪の身代わりとして死んでくださったことです。私たちは、イエス・キリストを神の子と信じることによって、自分の罪が赦され、終わりの日に、天において永遠に暮らすことができると信じています。ここで、問題となるのが、本当にイエス・キリストは神の子かどうかということです。私たちは、イエス様の処女降誕と死よりの復活を信じています。それが、イエス様が神の子であることの証拠です。しかし、本当にイエス・キリストが処女のマリヤから生まれたということ、イエス様が死んで三日目に復活されて天に昇って行かれたことの物的証拠はありません。その部分は信仰によって信じることだけです。しかし、聖書の出来事、パウロの信仰告白をみるならば、聖書の証言が正しいことがわかります。イエスが神の子であること、死から三日目に復活したことは、聖書の証言として私たちは事実であると信じています。私たちの信仰の土台は聖書のことば(約束)にあるのです。
モーセがカナンの地に近づいた時、12部族から12人の偵察隊を選び、カナンの地を探らせました。40日後彼らは帰って来て、イスラエルの民の前で、彼らが探って来た、カナンの地について報告をしました。その時、10人はその町の住人が非常に大きく、城壁に囲まれた大きな町であることを報告しました。それを聞いたイスラエルの民は戦意を失ってしまいました。しかし、ヨシュアとカレブは、「もし、私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。」「主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」と言って、イスラエルの民を励ましました。10人の偵察隊とヨシュアとカレブは同じ状況を見てきました。しかし、彼らの意見は二つに分かれました。彼らが見てきた事実は同じでした。しかし、ヨシュアとカレブはその状況を見ても恐れを持ちませんでした。この二人は、神様の御心がカナンの地を占領することであり、そのために神様が働いてくださることを信じていたからです。まさに、「信仰とは望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」ヨシュアとカレブは信仰によって勝利を確信していたのです。
私たちの信仰は、根拠のない「いわしの頭」を信じるような不確かなものではありません。私たちの信仰の確信は聖書のことばです。聖書が神は私たちを愛していると証言し、イエス様の十字架の死によって私たちの罪が赦されたと証言しています。私たちは聖書のことばをすべて、神様のことばと信じ、その約束がその通り成就すると信じています。これが私たちの信仰の根拠、信仰の土台なのです。