「古い契約と新しい契約」マタイの福音書26章26節~28節
旧約聖書、新約聖書を通して、契約という言葉は、聖書の中心をなす大切なことばです。また、聖書の中で使われる「契約」には、二つの形があります。一つは、契約者同士が対等な立場で結ぶ契約。もう一つは、主人としもべが結ぶ契約で、主人が僕に一方的に与える契約です。神様とイスラエルの民との間で交わされた契約は後者の契約にあたります。出エジプト記19章5節6節「今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」また、この主人としもべの契約には、祝福と呪いが伴っています。この契約を守れば、祝福が与えられるが、守らなければ呪いが与えられます。申命記11章27節28節「もし、私が、きょう、あなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令に聞き従うなら、祝福を、もし、あなたがたの神、主の命令に聞き従わず、私が、きょう、あなたがたに命じる道から離れ、あなたがたの知らなかったほかの神々に従って行くなら、のろいを与える。」というものです。この契約は、旧約聖書全体を通して明らかに示されました。イスラエルの民が神様のことばに従っている時は、国が繁栄しました。イスラエルの国が一番栄えたのはダビデ王の時代でした。しかし、王が他の神々を信じる時、イスラエルの民全体に偶像礼拝が広がり、そのような状態の時、外国から責められ、イスラエルの民は他国に支配されました。北イスラエルも南ユダ王国も滅んだのは、偶像礼拝による神様の裁きでした。
捕囚時代になって、イスラエルの民は、悔い改め、神のことばを守るために、会堂に集まり、神のことばに耳を傾ける礼拝へと変化していきました。捕囚から70年後、国の再建が許され、多くのイスラエルの民が国に帰り、国を再建し、神殿を建設しましたが、彼らの礼拝の中心は安息日に集まる会堂での礼拝でした。旧約聖書はマラキ書で終わり、すぐに新約聖書に繋がっていますが、歴史的に見ると、このマラキ書から新約聖書の時代の間には約400年の空白の時代が存在しています。その400年を中間時代と呼び、この時代に神様のことば(預言)は与えられませんでした。その代り、この時代に律法学者たちが登場し、旧約聖書を研究し、神のことばである旧約聖書が編集されたのです。しかし、彼らは、この神様の戒めを守るために、さらに、自分たちで戒めを作り、その戒めが膨大な数に上り、イエス様の時代には、神様の戒めと人間が付け加えた戒めとが混在してしまい、人々は、律法学者たちが教える戒めを守るために、生活が制限され、重荷を負わされる状態になってしまつたのです。そんな時代に誕生したのが、救い主イエス・キリストです。
イエス様の教えは、決して新しい教えではありませんでした。イエス様の教えは、神様の教えが何であるかをはっきり示すための教えでした。わかりやすく言えば、神様の戒めが何で、人が付け加えた戒めが何であるかを明らかにする教えでした。当然、イエス様の教えは、律法学者たちの教えを批判する説教となり、律法学者たちにとっては、当然、許すことができない教えでした。それゆえ、律法学者パリサイ人たちは、イエス様を捕らえ、宗教裁判にかけて、死刑の判決を下し、当時のローマ総督ピラトのもとに連れて行き、十字架に付けて殺すように要求して、救い主イエス・キリストを殺してしまったのです。
イエス様が捕らわれる前、イエス様は最後の食事の席で、弟子たちと新しい契約を結びました。マタイの福音書26章26節~28節「また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取って食べなさい。これはわたしのからだです。』また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。『みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。』」この時の食事は過越しの祭りの時の食事でした。過越しの祭りは、エジプトにおける最後の神の裁きで、エジプト中にいる「初子」最初に生まれた子のいのちを奪うという神様の裁きです。しかし、イスラエルの民にはモーセを通して神様の約束が与えられていました。それは、羊を殺しその血を門とかもいに塗りなさいと言う約束です。神様はその血を見てその家を通り越すと約束をしてくださいました。エジプト中の初子が殺されましたが、イスラエルの民は、神様の約束の言葉を守ったがゆえに、一人も殺されることがありませんでした。過越しの祭りは、それを記念して、神様が守るようにとイスラエルの民に与えられた大切なお祭りです。イエス様の時代から、今に至るまでユダヤ人たちはこの過越しの祭りを忠実に守っています。しかし、それは古い契約に属していました。
イエス様は、この後、自ら捕らえられ十字架の上でいのちを犠牲にされました。明らかに、この最後の晩餐の時、ユダヤ教の古い契約ではなく、ご自分の血と肉をささげることによって結ぶ新しい契約のことを示していました。動物の血といのちでは、私たちの罪を完全に拭い去ることは出来ませんでした。そこで、神様は私たち人類すべての者の、身代わりの代価となるために、ご自身のひとり子イエス様を人としてこの世に誕生させ、私たち全ての者の、罪の身代わりとして十字架の上でいのちを犠牲にされたのです。イエス様が私たちと同じ人間なら、イエス様も罪を背負っており、私たちの罪の身代わりとはなりえませんでした。しかし、神は唯一罪の無いお方です。その神の子が私たちの身代わりとなり死ぬために人として生まれてくださったのです。新しくイエス様を通して神と人とが結ぶ契約は恵みの契約と呼ばれる契約です。私たちは、罪人のままで、イエス様を信じる信仰によってこの契約を結ぶことができます。しかし、そのために、イエス様は十字架での苦しみを負い、いのちさえ犠牲にしてくださいました。これは、神が一方的に私たちに与えてくださった恵みの契約です。契約書には自らのサインが必要です。私たちは何の苦しみも、努力もしないで、ただ、この契約書にサインをするだけで、永遠のいのちをいただき、天の御国に、自分の住まいが備えられるのです。古い契約は、わざによる契約でした。神様の戒めをすべて完全に守るなら祝福を与えるというものです。私たち人間は神様の戒めを完全に守ることができる正しい人間でしょうか。律法学者たちのように、表面的に、または、外側だけ守って見せても、神様は私たちの心の中も探られるお方です。だれが神様の基準を満たすことができるでしょうか。それゆえ、神様はひとり子を犠牲にしてくださいました。また、イエス様はご自分のいのちを十字架の上で犠牲にしてくださったのです。神様の恵みに感謝します。今、私たちはこの契約のゆえに、神の民となり、神を父と呼ぶ特権が与えられたのです。