四重の福音

「四重の福音」マタイの福音書28章18節~20節

教会は、大きく分けて、カトリック教会とプロテスタント教会とに分かれます。また、そのプロテスタント教会も幾つかの教派にわかれています。しかし、そのプロテスタント教会も、それぞれの立場において、三つの大きなグループに分かれます。(1)福音派。(2)リベラル派。(3)ペンテコステ派です。(1)福音派は、聖書を神様の誤りのないことばと信じ、現在の私たちにも語られた、永遠に変わることのない神の言葉と信じています。(2)リベラル派は、聖書を部分的に神様のことばと信じていますが、創世記などは寓話として理解しています。また、その適用において自由に解釈し、時代と共にその解釈は変わると信じています。(3)ペンテコステ派は、福音派と同じように聖書を神様のことばと信じていますが、奇蹟や病のいやしを強調し、異言で話すことを強調するグループです。また、福音派の中でも私たちはさらに、潔め派と呼ばれるグループに属しています。潔め派とは、神様によって潔められた生涯を送ることを目的としたグループです。また、アライアンスのグループでは「四重の福音」を聖書の教えの中で特に大切な教えとして守っています。「四重の福音」とは、(1)私たちの救い主キリスト。(2)私たちの潔め主キリスト。(3)私たちの癒し主キリスト。(4)私たちの再臨の主キリストです。

(1)私たちの救い主キリスト。

私たちは、イエス・キリストを救い主と信じていますが、では、イエス・キリストは私たちを何から救ってくださるのでしょうか。マタイの福音書1章20節21節で、マリヤが身ごもったことを知って苦しんでいるヨセフに、主の使いがヨセフの夢の中でこのように言われました。20節「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。」21節「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」イエスとは「救い」と言う意味のことばです。主の使いは明確に「ご自分の民をその罪から救う」とヨセフに語っています。聖書において罪と刑罰は繋がっています。イエス様は救い主として誕生されましたが、もう一度この地上に戻って来られる時、それは裁き主として地上に戻られます。神様は罪の無い正しいお方です。それゆえ、罪を犯した人間をそのままで赦すことは出来ません。罪を行った者は、その自分の罪のゆえに、最後の審判の時に、神により裁きを受けます。イエス様によって罪赦された者は、永遠の天の御国に招かれ、罪を犯した者は、その自分の犯した罪の報いとして、永遠に消えない火の中で苦しまなければならないとされてます。

では、イエス・キリストはどのようにして、私たちを罪から救うことができるのでしょうか。それは、十字架の死と復活によってです。イエス・キリストは神の子で、私たちの罪の身代わりとして、人として誕生してくださいました。しかし、イエス・キリストは私たちと同じ肉体は持たれましたが、神の子としての本質は失っていません。それゆえ、イエス・キリストは33年の生涯で一度も罪を犯すことがありませんでした。その、神の子イエス様が無実の罪で自ら十字架に付き命を犠牲にしてくださいました。イエス・キリストの死はご自分の罪の結果ではなく、罪人である、私たちの罪を背負った身代わりの死です。それゆえ、イエス・キリストは死より復活して、天に昇って行かれました。私たちがイエス・キリストを神の子と信じ、イエス様の十字架の死が私たちの罪の身代わりであると信じるなら、神はイエス・キリストの十字架のゆえに、私たちの罪を赦すと約束して下さいました。私たち人間が自分の罪の問題を解決することができなかったので、神の子、イエス様が人となり、私たちの罪の身代わりとして十字架の上で死んで、復活されることによって、イエス様が、私たちのために救いの道を備えてくださったのです。

(2)私たちの潔め主キリスト。

ヨハネの福音書17章17節「真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。」19節「わたしは彼らのために、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです。」とあります。イエス様の私たちに対する願いは。私たちがこの世の罪から離れ、潔い生涯をおくることです。しかし、それは私たちの努力によってではありません。私たちが努力して潔くなろうとすれば、それは道徳の教えになってしまいます。私たちの潔さの道は、聖霊の助けが不可欠です。潔い生涯とは罪を犯さない生涯ではありません。私たちはこの地上で完全な潔さを身に着けることはできません。世はサタンの誘惑で満ちています。そのような誘惑の中において、聖霊の助けを得て、悪から離れ、神様の御心に従って歩むことによって、私たちの人生が潔い生涯となるのです。

(3)私たちの癒し主キリスト。

病のいやしは、聖書の中だけの出来事ではありません。また、病のいやしは、過去の出来事ではありません。現在でも起こる神様の恵みです。アライアンス教団の創始者であるA.B.シンプソン博士自身、病で危機的な状態であったにも関わらず、奇蹟的に病のいやしを体験しました。マタイの福音書8章でイエス様が多くの病をいやされたことが書かれ、マタイはこの状況を旧約聖書のイザヤ書のことばで説明しています。マタイ8章17節「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」また、イエス様は弟子たちに、病をいやす力(権威)を与えられました。私たちが信じる病のいやしとは、その人自身の信仰の力とか、祈りの力によるものとは考えません。病のいやしは、一方的な神様の恵みです。癒しをなさるお方は神様ご自身です。私たちは、神様に期待し、神様の力を信じて祈りますが、その結果(いやされるかいやされないか)は神様の判断にゆだねるだけです。

(4)私たちの再臨の主キリスト。

使徒の働き1章11節「ガリラヤの人たち。なぜ、天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて、天に上げられたこのイエスは、あなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」イエス様の再臨は神様の約束です。この地上は永遠に続くものではありません。世の終わりが来て、新しい天の御国が現れると約束されています。イエス様の再臨は、罪赦された者にとって、神と共に永遠に暮らす恵みの世界の始まりです。しかし、罪ある者にとっては、自分の身に神の裁きを受けなければならない恐ろしい瞬間でもあります。教会によっては名前に「~福音教会」という名前の付いた教会があります。「福音」とは、良い知らせという意味です。聖書の教えは、決して神様の裁きを強調して、人々を恐れさせ、強制的に信じ込ませる教えではありません。聖書の中心は「神様の愛と救い」です。そのために、教会では十字架を大切にしています。十字架こそ神様の愛とイエス様の愛の象徴だからです。世の終わりは、人間の罪の結果として、確実に行われる神様の約束です。それゆえに、神様はイエス様によって救いの道を備えてくださったのです。神様の恵みを信じるか信じないかは、個人の自由意志に任されています。しかし、神様の恵みを拒否するなら、終わりの日に、罪ある者として神様の前に立たなければなりません。私たちは神様の前に、罪により裁かれる者として立つか、イエス様によって罪赦された者として立つのか、私たちは、自分が生きているこの時間に決めなければならないのです。