天の御国と永遠のいのち

「天の御国と永遠のいのち」マタイの福音書19章16節~22節 召天者記念礼拝

キリスト教の最大の恵みは「救い」です。では、聖書で教える救いとは、何からの救いを意味しているのでしょうか。それは、「自分の犯した罪からの救い」です。では、聖書で教える「恵み」とは何でしょうか。それは、誰でも、ただでいただける神様からのプレゼントです。努力していただくのは報酬です。神様が私たちに与えてくださる「救い」とは、ただでいただく神様の「恵み」です。人は努力して得るものに喜びを感じ、達成感を感じます。特に日本人は、ただでいただくことに喜びを感じません。また、それ以上に不信感を感じます。

新約聖書の時代、ユダヤの国では、ユダヤ教が完成されていました。彼らは、旧約聖書の戒めを守ることによって神様に認められる正しい人になり、天の御国に入ることができると信じていました。そのために、旧約聖書を専門に教える律法学者という人々が熱心にユダヤ人に律法を教えていました。しかし、彼らの中でも、旧約聖書のどの戒めを第一に守るべきかは、意見が分かれていました。今日、お話する青年は、非常にまじめで、真剣にどの律法を守ることによって天の御国に入ることができるのか、真理を求める青年でした
その青年がイエス様のところに来て質問しました。16節「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」永遠のいのちを得るとは、天国に入ることを意味しています。イエス様は彼に言いました。17節「なぜ良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。もし、いのちにはいりたいと思うなら、戒めを守りなさい。」イエス様の意見は律法学者たちと同じ意見です。彼はさらにイエス様に「どの戒めですか。」と尋ねました。するとイエス様は19節「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」と言われました。この考えは、旧約聖書で、神様がモーセに与えられた十戒の後半の戒めです。青年はこれを聞いてイエス様に言いました。20節「そのようなことはみな守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」この青年は、子どものころから正しく教育されたのでしょう。彼は、モーセの十戒を良く知り、守ってきました。それでも、彼は自分が正しい人と言える自信がなかったのです。そこで、イエス様は彼に言いました。21節「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」それを聞いて、その青年はどうしたでしょう。22節「ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。」とあります。この青年はイエス様の前から去っていきました。イエス様が彼に言われたのは、多くの財産ではなく、神のみに信頼する生き方を求めるように言われたのです。しかし、彼はイエス様が言われたように、財産を捨てて、神様だけに信頼する生活をする決心ができませんでした。結局、彼は多くの財産に守られつつ、神様の戒めを守る道からはなれることができなかったのです。

イエス様はさらに弟子たちに言われました。23節24節「まことに、あなた方に告げます。金持ちが天の御国にはいることはむずかしいことです。まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」これを聞いて弟子たちは驚いたとあります。一般的には、金持ちはたくさんの献金を神殿に納めていました。それゆえ、お金持ちが一番、天の御国に近いと考えられていたからです。それで、弟子たちはイエス様に「それでは、だれが救われることができるのでしょう。」と問いかけたのです。イエス様は彼らに言われました。26節「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」その意味は、人は努力して天の御国に入ることはできないが、神だけがその権威を持っておられるという意味です。

プレゼントは、もらう側はただですが、贈る側は大きな代価を支払っています。神様は、私たちに「救い」というプレゼントを与えるために、ひとり子であるイエス様のいのちを犠牲にされました。イエス様は、私たちに「救い」というプレゼントを与えるために、十字架でいのちを犠牲にするという大きな代価を払ってくださいました。支払われた代価が大きいほど、プレゼントを受け取ってもらえなければ、贈り手はがっかりするものです。神様は私たちに「救い」というプレゼントを与えるために、ひとり子のいのちを犠牲にされたのです。その犠牲はあまりにも大きいものです。しかし、人はそれを喜んで受け取ってくれません。ユダヤ人は、神様からのこの救いのプレゼントを受け取らずに、自分の力で天の御国に入ることを望みました。また、多くの日本人も、真剣に天の御国について考えようとはしません。

今日は、召天者記念礼拝です。死は確実に私たちに近づいてきます。若い人も、老年になっても、死から逃れることはできません。そうであるならば、今日こそ、死んだ後のことを考える良いチャンスです。聖書は、すべての人は罪人であり、神様の裁きから逃れることはできないと教えています。また、天の御国は人間の努力で入れるところではないことを今日、学びました。また、そのために、イエス様は十字架の上で死なれ、永遠のいのち、救いを私たちにプレゼントとして与えてくださることを学びました。私たちは、二つのうちどちらかの選択をしなければなりません。一つは、このお金持ちの青年のように、イエス様の前から去って行くか。もう一つは、弟子たちのように、神様からのプレゼント「救い」を喜んで受け取るか。