「天の御国に招かれる者」マタイの福音書20章1節~16節(召天者記念礼拝)
日本人は仏教の影響で、死んだ者はすぐに誰でも天国に引き上げられると信じています。しかし、聖書はそのようには教えていません。聖書は罪ある者は、最後の審判の時、神様によって裁かれる、罰が与えられると教えています。また、聖書は全ての人は罪を犯したので、神様からの栄誉を受けることができない、天国に入ることができないと教えています。大学に入学するためにはその大学のテストに合格しなければなりません。しかし、聖書は全ての人は神様の前に罪を犯したので天国に入る権利を失ってしまったと教えています。では、どうすれば私たちは天国に入ることができるのでしょうか。今から一生懸命、神様に認められる正しい人になるように努力すればよいのでしょうか。そうではありません。人は一度犯した罪を消すことはできません。そこで、神様はご自身の方法で私たちの罪の問題を解決してくださいました。それが、自分のひとり子イエス様を私たちの罪の身代わりとして十字架の上で命を取られるという方法です。
子どもがデパートで誤って高価なお皿を落として割ってしまったとします。店の人はその子供に弁償させるでしょうか。こどもには弁償するするお金がないので、その親に代金を求めるでしょう。親も、自分の子が犯した損害ですから、お金を払って弁償(罪を償う)をします。それと同じように、神様はイエス様の命を通して私たちの罪を償ってくださったのです。神様はなぜ、そのような大きな犠牲を払ってくださったのでしょうか。それは、神様が私たち人間を誰よりも愛しておられるからです。
イエス様は群衆に天の御国について、色々な例えを通してわかりやすくお話しくださいました。先程、お読みいたしました、マタイの福音書20章もイエス様が群衆にお話しになられた天の御国の例え話です。この例え話は、どのような人が天の御国に入るのかをぶどう園で働く労務者を通して、イエス様がわかりやすくお話しになられた箇所です。まず、ぶどう園の主人は、朝早く出かけて、一日1デナリの約束で労務者を雇いました。1デナリは当時、一日働いた者に支払われるお金です。さらに主人は九時ごろと、十二時ごろ、三時頃にも出かけて行って労務者を雇いました。また、最後に五時ごろにも出かけて行って、仕事をしない者がいたので彼も雇い、ぶどう園で働かせました。そして、一日の労働が終わり、ぶどう園の監督が働いた者に一日の労働賃金を支払う時が来ました。ぶどう園の監督は最後に雇われた者、五時ごろに雇われた者から賃金を払い始めました。主人は最後の者たちとは賃金の約束はしていません。また、彼らは一時間しか働いていません。それなのに、監督は彼らに一日の賃金1デナリを支払ったのです。彼らはどんなに喜んだことでしょう。そして、それを見ていた朝早くから働いた者たちは、自分たちは朝早くから働いたのだから1デナリ以上もらえると期待しました。ところが、彼らに支払われたのも1デナリだったのです。朝から働いたものは主人に文句をいいました。しかし、主人は彼らに言いました。13節~15節「友よ。私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。自分のものを思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。」この世の考えから言えば、朝早くから働いた者が言うように納得がいきません。しかし、これは天国の例え話です。イエス様はこの例え話で群衆に天の御国について何を教えようとされたのでしょうか。それは、天の御国は努力して与えられるものではなく、神様の恵みとして与えられると言う事です。当時のユダヤ教の教えでは、天の御国に入るためには、神様の戒めを完全に守らなければならないと教えられていました。それゆえ、天の御国は人間が一生懸命努力してはじめて得られる難しい課題だったのです。しかし、イエス様はそうではないと言われました。天の御国は、人間が努力して得られるものではなく、神様が私たち人間にただで与えて下さる恵みだと言われたのです。しかし、そのことは、神の子であるイエス様が人として生まれ十字架の上で死ななければ実現しないことでした。イエス様は自ら人として生まれ十字架の上で命を犠牲にしてくださいました。それは、人がどんなに努力しても、神様に認められる完全な人になることができないことを知っておられたからです。
今日は、召天者記念礼拝です。先に天に召された方々のことを思う特別な礼拝です。一人一人は神様に認められる正しい人だったでしょうか。そうではなかったでしょう。誰もこの地上で神のように生きた人はいません。もし、イエス様が十字架の上で身代わりに死んでくださらなかったら、私たちに希望はありませんでした。今、私たちがはっきり言えることは、それぞれの方々は自分の正しさではなく、神様の恵みによって天の御国に召されたということです。また、私たちも同じようにイエス様を信じることによってこの恵み特権が与えられるという事です。私たちの究極の目的は、イエス様と出会って永遠のいのちが与えられ、天の御国に招かれることです。そのために私たちの人生はあります。今日、お集まりの一人一人にこの神様からの恵み、天の御国に入る特権が与えられますようにお祈りします。