「天国の国籍」ピリピ人への手紙3章20節21節
少し前に、民進党の党首選挙で蓮舫さんが二重国籍であることが判明し問題となりました。本人が気づかないところで、台湾の国籍が残されていたことが明らかにされたのです。彼女のお父さんは台湾人でお母さんは日本人でした。蓮舫さんは18歳の時に台湾の国籍を返上する手続きをお父さんがしたと記憶していたそうですが、実はされておらず、本人の知らないところで二重国籍であったことが明らかにされたのです。
国籍とは、その国の国民となり、その国の法律を守り、税金を払い、その国を支えることを意味しています。普通、その国で生まれることによって(父か母が日本人である場合)その国の国民である資格を有します。しかし、外国人であっても、帰化という手続きをすることによって日本の国籍を得、日本人となることができます。特に、スポーツ選手など、国籍を変えて日本人となり、オリンピックなど国際大会に出るケースがあります。
先ほどお読みしました聖書の個所で、20節「私たちの国籍は天にあります。」と書かれています。実は、天国にも国籍があります。その意味は、誰でも天国に入れるわけではないという意味です。日本人は仏教の影響で、死んだ人は皆、天国で暮らしていると考えています。しかし、聖書ではそのように教えていません。天国に入るためには神様の許可がいります。なぜなら、天国は神様のものであり、人間が勝手に入れるところではないからです。では、どうしたら私たちは天国に入り、天国の住人となれるのでしょうか。例えば、教会の二階に私たち家族の住まいがあります。今、二階の玄関には鍵がかけられ、勝手に人が入らないようにしています。二階の部屋に入るためには、私たちが許可し、鍵を借りなければなりません。それと同じように、私たちが天国に入るためには、神様の許可を得なければなりません。神様が定めた天国に入る基準は「罪が無い者」です。一度でも罪を犯した者は天国に入ることができません。元々、神様は初めの人アダムを創造された時、エデンの園に住まわせました。エデンの園は神様が備えた天国のようなところでした。ところが、アダムとエバがヘビに誘惑されて、罪を犯したが故に、二人はエデンの園から追い出されてしまったのです。神様は唯一、罪の無いお方です。その、神が住まわれるところ、天国も罪が無い所です。それゆえ、私たちは罪を持ったままで天国で暮らすことは許されないのです。
しかし、聖書は全ての人は罪を犯した罪人であると記しています。また、私たちの生活を振り返って、罪の無い人生、神様のように罪を犯さない完ぺきな人生を歩んだ人はいるでしょうか。自信を持って神様の前に、自分は罪を犯したことがないと、はっきりと主張できる人はいるでしょうか。私たちは誰も、自分の正しさで神様の基準を満たす人はいません。そこで、神様は私たちが天国の国籍を得るために、別のもう一つの道を備えてくださったのです。それが、イエス・キリストです。私たちは、どんなに努力しても、罪を犯さない人間になることはできません。しかし、神様は、神様の御前で私たちが罪を赦される道を備えてくださいました。神は、ご自身の子、イエス・キリストをこの地上に人として誕生させ、私たちの罪の身代わりとして十字架に付けて命を取られました。そして、神は、イエス・キリストを神の子と信じる者は、イエス・キリストの命のゆえに全ての罪を赦すと約束してくださったのです。つまり、私たちが天国の国籍を得るためには、イエス・キリストを神の子と信じるだけで与えられるということです。しかし、イエス様はそのために、神でありながら、人として生まれ、人々からさげすまれ、最後は、十字架に付けられて惨めな死を自ら受けてくださいました。イエス様のそのような犠牲なくして、誰も、天国の国籍を得ることはできなかったのです。そこに、キリスト教のすばらしい教えがあります。
イエス・キリストを信じた者はすぐに天国に行くわけではありません。聖書の教えによれば、天の御国は世の終わりの後、天から下って来ると表現されています。それゆえ、永遠の国、天の御国は世の終わりの後、私たちの体が、イエス様のように栄光の体に変えられた後、神様と共に永遠に住まうところです。では、それまでに亡くなった方々はどこに行くのでしょうか。聖書によれば、イエス様を信じる者はパラダイスに行き、そこで、イエス様がもう一度来られる再臨の時を待つと教えられています。私たちが永遠に住まう天の御国は、死も、悲しみも苦しみもない世界です。地上の苦しみはいつまでも続くものではありません。いつか終わりを迎えます。この地上での命が亡くなった時、私たちの存在が無くなるわけではありません。肉体はなくなります。しかし、魂は神のおられるパラダイスに引き上げられ、イエス様の再臨の時を待つのです。今日は、召天者記念礼拝です。すでに、私たちの家族は天に引き上げられました。そこで、私たちを見守り、私たちが天に上げられて再会する時を待っています。これが、私たちの確信であり、信仰です。死によって分かれることは悲しいことです。しかし、私たちはこの天国の国籍ゆえに、もう一度、再会すると言う希望を持っています。また、それは、家族を天に送った者に与えられた恵みと希望なのです。