「弱さのうちに完全に現される神の恵み」コリント人への手紙第二12章7節~10節
旧約聖書は何千年も前に書かれた書物ですが、現在と同じ問題を私たちに提示しています。例えば、夫婦の問題。親子の問題。生きる目的など。私たちは聖書を通して、現在の問題を考え、解決を見出すことができます。それゆえに、聖書は世界中のことばに訳され、神のことばとして何千年も読み継がれてきたのです。
創世記は神と人間について書かれた書物ですが、創世記の12章で神様がアブラハムを選ばれ、アブラハムは神様と特別な契約を結びます。その後、聖書は、アブラハムの子孫と神様との関係を中心に描いていきます。イスラエルの民として。神様は一方的にアブラハムを選ばれました。なぜ、アブラハムが選ばれたのか、その理由は記されていません。それと同じように、神様はアブラハムの後継者としてイサクを選ばれました。アブラハムにはもう一人、アブラハムの妻サラの女奴隷ハガルから生まれたイシュマエルという息子がいました。しかし、神様の選びは、アブラハムとサラの子イサクでした。
また、イサクには二人の息子が生まれました。エサウとヤコブです。二人が生まれる前に、リベカは、主のことばによって兄が弟に仕えるということばを聞きました。二人が生まれる前ですから、二人の能力によって後継者として神がヤコブを選ばれたのではないことは明らかです。エサウは巧みな猟師、野の人となり、ヤコブは穏やかな人となり天幕に住んだとあります。当然、族長であるイサクは野の人であるエサウを後継者に考えていました。しかし、主のことばを聞いたリベカは弟のヤコブこそ後継者になるべきだと考えていたのです。では、当の二人はどう考えていたでしょう。兄エサウは、父親の支持もあり、弟ヤコブのひ弱さを見て、自分こそ族長に相応しい者だと考えていました。では、弟ヤコブはどうでしょう。彼は、力では兄に勝つことはできないとは知っていました。しかし、知恵においては自分の方が上だと信じていました。いつか、兄をだまして長子の権利を自分のものにしようと兄のすきをうかがっていたのです。まさに、ヤコブは狡猾な人間でした。
ヤコブにそのチャンスが訪れました。兄エサウがお腹をすかせて猟から帰ってきたのです。その時、ヤコブは台所で煮物を煮ているときでした。お腹をすかせた兄エサウはヤコブにその煮物を求めました。その時、ヤコブは、兄エサウに交換条件を持ち出したのです。それは、エサウの長子の権利と煮物との交換です。ヤコブは兄エサウがこの交換に簡単に応じることを知っていました。兄エサウは十分に考えることなく、簡単にヤコブの提案に同意してしまいました。また、それがエサウの性格でした。ヤコブはそのことを知りぬいた上で、兄エサウに長子の権利を放棄させたのです。
しかし、そのことは父イサクの知らないことでした。イサクが年を取り体が衰え、目がかすむようになった頃、父イサクは兄エサウを呼んで、アブラハムから受け継いだ特別な祝福を授けようと考えました。主の声を聞いたイサクの妻リベカは、それを知り、どうしてもヤコブが後継者にならなければならないと強く考えました。そこで、リベカはヤコブを呼んで、兄に成りすましてアブラハムから受けた特別な祝福を兄エサウから奪い取るように命じたのです。ヤコブは恐る恐る父に近づき、父をだまして、兄エサウの祝福の祈りを奪い取ってしまいました。あとから父のところに来たエサウはすでに父がアブラハムの特別な祝福の祈りをしたことを知りました。そして、それがヤコブの仕業であることを知り、エサウは、ヤコブを激しく憎み、父イサクが亡くなった後に、ヤコブを殺してやろうと怒ったのです。それを知った母リベカは、ヤコブのいのちを守るために自分の兄ラバンの下に避難するようにヤコブに命じたのです。ヤコブは叔父ラバンに騙され、辛い20年を過ごしました。そして20年後、神様はヤコブに父の家に帰るように命じられたのです。しかし20年たってもヤコブは兄エサウの怒りを忘れられませんでした。家に、近づいた時、ヤコブは一人神と格闘したと書かれています。そして、その時に神によって、ヤコブのもものつがいが外されたとあります。もものつがいはその人の力を表しています。ヤコブはその時に神によって自我が砕かれ神にしがみついたのです。その後、ヤコブの名前がイスラエルに変えられたとともに、彼の人生も変えられました。以前は、自分の知恵に頼り、人を押しのける者でした。それが、神に従うものへと変えられたのです。この後、ヤコブとエサウは和解します。20年たってエサウのヤコブに対する怒りは消えていました。しかし、それは年月によるものでしょうか。エサウは父からアブラハムが受けた特別な祝福の祈りは得ることはできませんでした。しかし、ヤコブが家を出た後、父イサクに代わってエサウは族長になり、父イサクの財産は全て自分のものにしていたのです。彼がほしいものは全て自分のものにしていたので、エサウはヤコブへの怒りなど微塵もなかったのです。
ここで、考えたいことが一つあります。はたして、神様を求めたのは兄のエサウと弟のヤコブのどちらだったでしょう。答えは、弟のヤコブでした。弟ヤコブは兄を騙し、父を騙しても神様の祝福を求めたのです。それに比べて、兄エサウが求めたものは何だったでしょうか。それは、父イサクの族長という権威とその財産でした。エサウはアブラハムの受けた神様の祝福より、父の族長の権力と財産を求めたのです。確かに、神様の選びはヤコブにありました。しかし、ヤコブがこの祝福を求めなければ、アブラハムの後継者になることはありませんでした。そのために、彼は、自分の弱さを学ぶ必要があったのです。コリント人への第二の手紙を書いたパウロという人は、すばらしい伝道者でした。しかし、彼が自分の弱さを学ぶために、神はあえて、彼の祈りを聞きませんでした。しかし、それによってパウロは自分の弱さを学び、その弱さのゆえにキリストの力が表されることを学んだのです。自分の知恵と力に頼るものは神様を必要としません。自分の弱さ、足りなさを学んだ者こそ、神に用いられる者です。
また、救いも同じです。イエス様が言われたように、医者を必要とする者は病人です。健康な者は医者を必要としません。それと同じように、自分が罪人であると認めない人に、救い主であるイエス様は必要のない人です。しかし、イエス様は罪人を救うために神によって遣わされた神の子です。そして、人を罪から救うために十字架の上で死なれたお方です。私たちは救われるために救い主イエス様を必要とする人でしょうか。また、イエス様は、マタイの福音書5章3節で「心の貧しい人は幸いです。」と言われました。「心が貧しい」とは、心が空っぽな者、この世の物では満たすことのできない心のことだと言われています。エサウはこの世の物で心を満たし満足する者でした。しかしヤコブはそうではありませんでした。私たちの心は何によって満たされるでしょうか。富、名誉、この世での豊かな生活、また、成功でしょうか。それとも、神様の恵みでしょうか。私たちが神様の恵みをいただくために必要なことは何でしょうか。1、神の祝福を求めること。2、神の前で謙遜になることです。(自分の弱さを認めることです)