「復活したイエス様と出会った二人の弟子」ルカの福音書24章13節~35節
イエス様が十字架に付けられて殺された後、12使徒ではない、イエス様の弟子アリマタヤのヨセフと、前に夜イエス様を訪ねたユダヤ教の指導者ニコデモが総督ピラトの所に来てイエス様の遺体を引き取り、亜麻布で包み墓に納めました。これが金曜日の出来事です。そして翌日は安息日であったので休みを取り、翌日の週の初めの日(日曜日)の朝、女性数名が香料を持って墓に出かけました。すると墓の入り口を塞いでいた石が取り除かれて、すでにイエス様の体がなくなっているのを発見したのです。また、彼女たちは二人の天使に出会い、イエス様が復活されたことを知らされ、その出来事を弟子たちに伝えました。しかし、弟子たちは彼女たちの話をバカにし、信じようとはしませんでした。
また、エルサレムから十一キロメートル離れたエマオという村に、二人の弟子が向かっていました。二人は、イエス様がユダヤの国をローマの支配から独立させ、新しい国を造りあげてくださる方と信じてイエス様の弟子になった者でした。しかし、イエス様は捕らえられ十字架に付けられ殺されてしまいました。二人は、将来の希望を失い、自分たちの村に帰る途中でした。その失望し弟子の仲間から離れる二人に、復活されたイエス様が近づいて来られたのです。しかし、二人はあまりの深い失望のゆえに、近づいてきた人がイエス様だとは気付きませんでした。16節「しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。」とあります。希望を失うこと、失望は目の前を暗くし、生きる目的を失ってしまいます。イエス様が死んだという現実の前に、二人は希望を失いイエス様を見てもイエス様とは気づくこともできなかったのです。そんな失望した二人にイエス様が近づいて来られ声をかけました。二人は、この見知らぬ男性に、自分たちが失望している原因、エルサレムで起こったイエス様の死について話しました。二人はイエス様が力ある預言者であること、この方こそ、イスラエルの国を贖ってくださる(独立させてくださる)方として望みを置いていたことを話しました。また、女達がイエス様が納められた墓で御使いたちに出会い、イエス様が生きておられると告げられたことを話しました。二人はイエス様が死から復活されたという話を聞いても信じることができなかったのです。そこで、イエス様は聖書全体からご自分の復活について二人に話し始められました。目的の村に近づき、二人はイエス様にいっしょに宿に泊まってくださるようにお願いしました。三人が夕食の食卓についた時、30節「イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。」とあります。31節「それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。」とあります。その後、イエス様は二人の前から姿を消されました。残された二人はどうしたでしょうか。33節にすぐに二人はエルサレムに帰って弟子たちにこの出来事を報告したのです。
この出来事は、いかに私たちがイエス様の復活を信じることが難しいかを表しています。弟子たちも、二人も御使いが現れてイエス様が死より復活したことを伝えても信じることができなかったのです。信じるということと理解するということは大きな違いがあります。例えば、イエス・キリストが十字架に付けられて殺されたことは、小学校の世界史の時間に学びました。それゆえ、子供の頃からイエス・キリストが歴史的人物であることは理解していました。しかし、その時に、イエス様が三日目に復活されたことは聞きませんでした。公立の学校でしたから、イエス・キリストが死より復活したという証拠のない出来事、また、信仰の部分に入ることは、あえて教えなかったのでしょう。
信じるとはどういうことでしょうか。それは、実際に体験したことのないこと、見たことのない事をその通りだと信じることです。そのためには、そのことを伝えてくれた人を信じる。または、その情報源を信頼するということが大切です。キリスト教で言えば、弟子たちの証言、聖書の言葉を信じるということです。先ほどの、二人の弟子は、イエス様が死より復活したという女達からの情報は知っていました。しかし、彼らの常識がこの情報を信じさせなかったのです。では、ふたりはどのようにしてイエス様の復活を信じたでしょうか。(1)イエス様が近づいてきて、二人に聖書全体からご自身についてお話されたとあります。ユダヤ人たちは旧約聖書を神様の言葉と信じていました。そして、神様の約束である救い主を待ち望んでいました。しかし、彼らが待ち望んだ救い主はこの世の王となる救い主でした。それは、彼らの聖書の理解が間違っていたからです。聖書の示す救い主は、人々に蔑まれ殺される救い主でした。まず、彼らの偏見、間違いを正しました。(2)食事の時、イエス様はパンを取って祝福し二人にお渡しになられました。二人はその時に目が開かれてイエス様であることがわかったとあります。この場面は聖餐式を思い出させます。もっと広く言えば、私たちが信じるために神様の助けが必要だということです。私たちがイエス様を信じるために、神様は聖書と教会を備えてくださったのです。
また、私たちは苦しみの中、試練の中にいると神様の存在を疑ってしまいます。それほど、私たちの信仰は弱いものです。それゆえ、神様の助けが必要なのです。ある先生が教えてくださいました。私たちの心の扉には内側しか取っ手が着いていないそうです。その意味は、私たちが内側から扉を開かない限り、外側から入ってくることはないということです。神様は外側から私たちの心をノックします。しかし、私たちが内側から扉を開けない限り神様は私たちの心の中に入ることができないということです。先ほどの二人の場合、イエス様が復活したと言う情報があっても、信じようとしませんでした。かたくなに扉を閉めていたのです。しかし、イエス様が二人のためにパンを裂いた時、二人は心を開いたのです。苦しみや悲しみの時、自分が神様に愛されていることを忘れてしまいます。しかし、少し、心の扉を開いてこんな者でも神様は愛してくれることを信じたいと心を開くなら、神様が信じる力を与えて下さいます。私たちの信仰は弱いものです。それゆえ、神様は私たちに教会と聖書を与えてくださり、また、私たちが助けを求めるなら、いつもそばにいて助けてくださるお方なのです。