ヨハネの福音書14章1節~6節
1、イエスの復活と天の御国の住まい
先週、聖餐式を行いました。聖餐式については、マタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書に記されています。しかし、ヨハネの福音書には聖餐式について書かれていません。多くの学者が、ヨハネの福音書において、イエスが13章で弟子たちの足を洗われた記事が聖餐式の意味を表していると説明しています。イエスは弟子たちと別れて天に昇って行かれる時が近づいたのを知り、最後の別れに弟子たちに、ご自身の愛を表されました。ヨハネの福音書13章1節「さて、過越しの祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のもとに行く、自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。」とあります。そして弟子たちの足を洗われたのです。また、互いに愛し合うように教えられました。この後、ご自分がイスカリオテ・ユダに裏切られることを示されました。しかし、その時は、弟子たちはその事は分かりませんでした。そして、イエスはご自分がこれから行こうとする道に、弟子たちがついて来られないと告げられたのです。そのような状況の中でイエスが弟子たちに話されたのがヨハネの福音書14章です。1節~3節「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には住むところがたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。」今、イエスは最後の大仕事、十字架の死と復活に向かって歩もうとされています。イエスの十字架の死と復活は、私たちを天の御国に迎えるために行われる神の奇跡です。弟子たちはイエスとの別れに不安を覚えていました。イエスはそんな弟子たちを安心させるために、ご自分が向かっているのは死ではなく、その先にある天の御国であり、そこに、あなたがたを迎えるために場所を備えに行くのだと約束されたのです。4節「わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。」とイエスは言われました。それを聞いてトマスはイエスに言いました。5節「主よ。どこへ行かれるのか、私たちにはわかりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」トマスは正直に、イエスが行こうとしている道が分かりませんと、イエスに問いかけました。イエスは彼に言われました。6節「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」イエスがここでご自分のことを「道であり、真理であり、いのちである」と言われたのは、父のもと、天国に入るためには、ご自分(イエス・キリスト)を通さなければ入れないと言われたのです。ある人は、何と狭い考えかと思うかもしれません。また、ある人は、まじめに生きていればだれでも神様は天国に入れてくださると考えています。また、ある人はどんな宗教、神様でも熱心に信じるなら天国に入れると考える人もいます。本当にそうでしょうか。人間の努力、力、正しさで天国に入れるなら、なぜ、イエス・キリストは神の姿を捨て人として生まれたのでしょうか。なぜ、十字架につけられて殺される必要があったのでしょうか。キリスト教の土台、あるいは、入り口はイエス・キリストを神の子と信じることです。その神の子が神の姿を捨てて人として生まれ、私たちの罪の身代わりとして十字架につけられ殺されました。しかし、イエス・キリストは神の子ゆえに死より三日目に復活され、弟子たちにその姿を現わして天に昇って行かれました。これが、聖書の教えです。その土台となる、イエスが神の子であることを信じることが出来なければ、処女降誕も復活も信じることは出来ません。また、聖書はイエスを神の子と信じるのは人間の力ではなく、神の助け神の力が必要だと教えています。イエスを神の子と信じることこそ、救いの第一歩なのです。
2、神が共におられる
イエスが天に昇って行かれるのは、天に私たちの住まいを備えるだけではありません。イエスはご自分が天に行かれたら、ご自分の代わりに聖霊を遣わすと約束されました。ヨハネの福音書14章16節「そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。」
「助け主」とは、聖霊を意味しています。聖書は、神の性質として三位一体の神を教えています。「三位一体」とは、神は唯一であり一人の神です。その神の中に「父なる神と子なるキリスト、聖霊なる神」が調和して存在しているという考えです。それゆえ、神が共におられる、イエスが共におられる、聖霊が共におられるとは同じ意味、同じ状態を示しているという事です。そして、その約束が、ペンテコステの日、弟子たちに聖霊が下り、弟子たちは新しい力を得ました。そしてその日だけで、三千人が仲間に加えられたとあります。これが教会の誕生日と定められています。
神が共におられるということは、苦しみや悲しみがなく、病気もしないという意味ではありません。旧約聖書で神に選ばれた、アブラハムもヤコブも神が共にいましたが苦しみもありました。ヤコブの子ヨセフは神が共におられましたが、兄弟に妬まれ、エジプトに行く商人売られました。また、無実で監獄に入れられたこともあります。しかし、神の助けによってエジプトの王の次に高い位を得ました。そのように神が共におられるとは、苦しみや悲しみはありますが、神の助けが必ずあるということです。イスラエルの国の二番目の王になったダビデは羊飼いの家に生まれました。ダビデは少年の時に神にイスラエルの王になるように選ばれましたが、先に王になったサウル王にいのちを狙われ、彼からか逃げ回らなければなりませんでした。また、また、サウル王が殺され、ダビデがイスラエルの王に就任しました。後に、彼は自分の子アブシャロムにいのちを狙われ、国を追われました。ダビデは自分の子アブシャロムと戦い勝利しましたが、自分の子を失ったことで悲しみに沈みました。しかも、自分の子が殺されても、王として共に戦った者たちと勝利を祝わなければなりませんでした。どれほどの悲しみでしょう。ダビデはそれでもその悲しみを乗り越えました。詩篇23篇には彼が作った有名な詩が残されています。1節「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。」2節「主は私を緑の牧場に伏させ いこいのみぎわに伴われます。」3節「主は私のたましいを生き返らせ 御名のゆえに 私を義の道に導かれます。」4節「たとえ 死の影の谷を歩むとしても 私はわざわいを恐れません。あなたが ともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖 それが私の慰めです。」5節「私の敵をよそに あなたはわたしの前に食卓をととのえ 頭に香油を注いでくださいます。私の杯は あふれています。」6節「まことに 私のいのちの日の限り いつくしみと恵みが 私を追って来るでしょう。私はいつまでも 主の家に住まいます。」ダビデは「死の影の谷を歩む」経験を何度も体験しました。それでも彼は恐れませんでした。彼はどんなときにも神が共におられることを信じていたからです。
旧約時代は、神に選ばれた特別な人と神は共におられました。しかし、今、イエス・キリストが父のもとに行く事によって、イエスを神の子と信じる者と神は共におられると約束してくださいました。「永遠のいのちを持つ」とは、永遠のいのちを持つイエス・キリストと繋がることを意味しています。この地上で、イエスを神の子と信じることによって神は私たちと共におられます。たとえ、私たちが亡くなったとしても、天の御国で神は私たちと共におられます。それが、永遠のいのちの意味です。
ある人は、亡くなる前にイエス・キリストを信じればいいと考えます。しかし、神の祝福は天国だけではありません。この地上においても神は共にいてくださいます。将来の事を知ることが出来ない私たちにとって不安はなくなりません。また、私たちの一番の不安は死であり、死後の世界です。しかし、イエスが弟子たちに約束されたように、私たちの住まいを天に備えてくださると約束してくださいました。これこそが、私たちの喜びであり、将来の不安を拭い去る唯一の恵なのです。