依然として新型コロナウイルスの感染が世界中で広がっています。また、都内での感染者の数は減少してきましたが、今度は第二波の感染が心配されています。これから先、いつまで感染の影響が続くのか誰も予測ができない状態となりました。私たちは先が見えない状況に追い込まれると、将来に不安を覚えたり思い煩ったりします。そのような時、聖書ではどのようにするように教えているでしょうか。
ピリピ人への手紙4章6節「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」(パウロ)
ペテロ第一の手紙5章7節「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(ペテロ)
パウロとペテロは、「神に祈りなさい。」「神にゆだねなさい。」と教えています。しかしそのことは知識としては理解していても、神に委ねられないのが私たちの弱さです。イエスの弟子たちもそうでした。そこでイエスは、空の鳥や野の花を通して、私たちが誰によって生かされているのかを教えられたのです。
27節「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちをのばすことができるでしょうか。」
私たちは自分の力だけで生きているのではありません。神の助けと御こころによって生かされている者です。イエスが言われたように、自分のいのちを少しでも伸ばすことができない者です。思い煩いから解放されるために、まず私たちがしなければならないことは、自分には限界があることを受け入れることです。次に私たちにいのちを与えてくださる神を信頼することです。
また、イエスはこのように言われました。
30節「今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか、信仰の薄い人たちよ。」
野の草や花、空の鳥よりも私たちを愛し下さる神は、私たちの必要を知り与えてくださるお方です。
神は私たちの必要をすべて知っておられます。それゆえイエスはこのように言われました。
33節「まず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えられて与えられます。」
ここで言われている「神の国」とは天国の意味ではなく「神の支配」を意味しています。ここでイエスが言われたことは、神の支配を求めて自分の人生を神様に明け渡しなさい。そうすれば、神が必要なことすべては備えてくださるという意味です。
最後に、イエスはこのように言われました。
34節「ですから、明日のことまで心配しなくてもよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。」
悪いことが続くと、さらに悲惨な目にあうのではないかと、思い悩んでしまいます。ですが私たちは明日のことすら、知ることのできない者です。神は私たちの人生のすべてを知っておられるお方です。私たちにできることは、その日その日、神に生かされていることを神に感謝することだけです。
私は26歳で神学校に入りました。その時の私の祈りの課題の一つに、自分の結婚のことがありました。4年の学びの間に、結婚相手を見つけ、卒業と同時に結婚するというのが私の願いでした。しかしクラスメートに素敵な女性が何人かいましたが、お付き合いするには至りませんでした。4年生も終わりが近づきましたが、結婚相手となる女性との出会いはありませんでした。私はしだいに心が暗くなり、一生独身で暮らすのではないかと不安になりました。(思い煩う日々が続きました。)しかしある時、自分の人生は神の御手の中にあるのだということに気が付かされました。結婚のことも含めてすべてをゆだねよう。そして牧師としての成長を第一に願い求めていこうと決心しました。その後、神学校を卒業し小手指教会に赴任したのです。私が独身だったため、祈祷会で私の結婚についての祈りが始まりました。その中で、家内の名前が挙がり、私自身個人の祈りの時に彼女の名前を挙げて祈るようになり次第に、心の中に喜びと確信が生まれるようになりました。しかし結婚には相手の同意が必要です。そこで彼女に手紙を書き、横浜で二人だけの時間を持ちました。それから文通がはじまり、結婚に至ったのです。このような出会いがあるとは、神学校で祈っていた時には思いもよらないことでした。
自分の人生を自分の思い通りに生きることのできる人は誰もいません。自分の将来がわからないゆえ、不安や葛藤が生じるのです。誰でも思い煩うことがあります。しかし私たちの人生は自分の力ではどうしようもないことを認め、神が最善の道を備えてくださることを信じるとき、思い煩う時間を短くすることができます。そのためには、神への信頼が不可欠です。イエスは弟子たちに主の祈りを教えるときに、「天にいます私たちの父よ。」と祈りなさいと言われました。しかし私たち人間がどうして神を父と呼ぶことができるでしょうか。それはイエスの恵みの故です。私たちはイエス・キリストを通して、神の子どもとなることができます。それは、実の子ではなく養子のような関係です。養子の場合、父と母がその子を自分の子どもとして受け入れて初めて親子の関係を結ぶことができます。ここで大切なことは、私たちが自分の努力で神の子どもになるのではないということです。養子は、100%父と母の意志によります。私たちが神の子どもとされる特権をいただいたのは、イエスを神の御子と信じる信仰によります。ただ、私たちがそれを信じるかどうかです。子どもは自分で生活費を稼いでいるのではありません。親が子どもを養っているのです。子どもはそれを認めて親に感謝することが大切です。私たちも自分で自分を養う者ではなく、神に養われる者です。それゆえペテロもパウロも、「神に祈りなさい。」「神により頼みなさい。」と教えているのです。