ルカの福音書15章11節~24節
マタイの福音書18章の21節で、ペテロがイエス様に尋ねました。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。七回まででしょうか。」ペテロは具体的な回数をあげてイエス様に質問しました。イエス様は彼に言われました。22節「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでと言います。」ペテロは多めに七回といいましたが、イエス様はそれを70倍するまでと言われました。その意味は回数ではなく、完全にいつでも相手を赦しなさいと言う意味です。私たちは何回でも人を赦すことができるでしょうか。これは、神の性質を表したことばではないかと思います。ルカの福音書15章11節より有名な「放蕩息子」のお話があります。このお話の父親は神を表し、弟息子は私たちを表しています。弟息子は父との生活を嫌って、財産の分け前をもらうと遠くの町へと旅立ちました。そして、そこで財産を使い果たし、食べるにも困る状況を招いてしまいました。この姿は、神から離れた私たちの姿を現わしています。また、彼は豚の世話をする仕事しか与えられませんでした。イスラエルの民にとって豚は汚れた生き物とされています。その豚の世話をすることは、最低の生活環境を表しています。それでも彼は食べ物が与えられず、豚のえさで腹を満たしたいほど追い込まれてしまいました。ここで彼は17節「彼は我に返って」と言う言葉があります。それは「本当の自分の姿に気が付いた」ということです。彼は父との生活を嫌って家を出ました。それは、家を出ることによって幸せになれると考えたからです。しかし、実はそうではありませんでした。家を出てみると世間は冷たく、自分の考えの甘さもありますが、父から離れることによって、さらに悪い状況に追い込まれてしまいました。この弟息子の姿は、神から離れ自分の力で頑張っている私たちの姿を現わしています。ある人は、神に支配されるのが嫌で神様を信じないという人がいました。またある人は、神を必要とする人は弱い人間で、私は神様に頼る必要がない、私は自分自身だけに頼って生きていくと言いました。私が教会に来るまでは私自身もそう考えていました。神など必要ない、神を信じると不自由になると考えていました。しかし、その反面、将来に対する不安を抱えていました。先の見えない人生、これから先自分はどうなるのか。去年多くの方々が、新型コロナウイルスのために将来に対する不安を抱いたのではないでしょうか。
弟息子の話に戻って、彼は我に返って言いました。17節「父のところには、パンの有り余っている雇い人が、なんと大勢いることか。それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。」彼は、我に返った時、実は父のもとにいたとき、父に守られ幸いな日々であったことを思い出したのです。これは、人間が自分の本当の姿(弱い者)に気が付き、神の助けが必要な者であることに気が付いた時の姿です。私は、神と出会うまで、自分の力に頼り、自分の力で人生を切り開いていかなければならないと考えていました。その時の私は人生に疲れていました。しかし、教会に通うようになり、神が私たちを愛し、私たちは実は神によって生かされていることを知った時、肩の重荷を下ろしたような感じでした。そこで、弟息子は決心して言いました。18節19節「立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。』」これが悔い改めた者の姿です。
彼は(1)神の前に、また父に対して罪を犯した者であることを認めました。(2)自分が子としての資格を失った者であることを認めました。(3)雇い人でもいいから父のもとで生活することを願いました。悔い改めるとは、自分の罪を認め、方向転換することだと教えられました。方向転換とは、今までの歩みを捨てて、神の御心に従って歩むことを決心することです。
ここまで、イエスは悔い改めについて弟息子の姿を通して教えられました。次に、イエスは父の姿を通して神の性質(姿)愛と赦しを教えています。20節「こうして彼は立ち上がって、自分の父のもてへ向かった。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。」とあります。弟息子がまだ遠くにいるのに、父が彼を見つけたということは、父が弟息子の帰りを待ち望んでいたことを表しています。また、彼に駆け寄り抱きしめ口づけした姿に父の愛情(神の愛)を表しています。帰って来た息子に対して父はどのように彼を迎えたでしょうか。(1)一番良い衣をしもべに持ってこさせました。それは、この息子がぼろぼろの汚いなりで帰ってきたことを表しています。想像してみてください、もし、皆さんが父親として、ぼろぼろの服装、汚い姿で帰って来たのを見た時、その息子を喜んで抱きしめるでしょうか。私なら躊躇します。または、家に入れないかもしれません。しかし、イエスはこの父親の姿を通して私たちに神の愛の姿を示しているのです。(2)手に指輪をはめ、履き物を履かせることは、親子の関係を回復したことを表しています。(3)肥えた子牛を屠り祝宴を開いたことは、失った息子を取り戻した父の喜びの姿を表し、私たちが自分の罪を認め悔い改め、神のもとに私たちが立ち返っときの神の喜びを表しているのです。
これはイエス・キリストのたとえ話です。しかし、神は私たちを救うために、実際にイエス・キリストを人として地上に生まれさせ、十字架の上でいのちを取られました。また、イエス・キリストは世界を支配する力を持ちながら、自ら捕らえられ十字架の上でご自分のいのちを犠牲にされました。私たちはこの尊い愛と命の犠牲により、神の子としての特権を回復する者となったのです。私たちが救われたのは、私たちの清さや努力の結果ではありません。父がそのぼろぼろの身なりの息子を抱きしめて迎えたように、神の愛は私たちのそのままの姿、罪人の姿のままで受け入れてくださるお方です。キリスト教の中心はこの神の愛です。また、私たちの信仰は、この神の愛に対して私たちがどのように感謝するかです。新しい年を迎えました。私たちはこの神の愛に対して、どのように報いることができるでしょうか。