マタイの福音書4章1節~11節
イエス・キリストがバプテスマのヨハネから洗礼を受けられると、天が開け、神の霊が鳩のようにイエスの上に降り、天から「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」という声が告げられました。この事によって、イエス・キリストが神の子であり、旧約聖書で預言されたメシヤ(救い主)であることが証明されました。
次にイエスは、荒野において悪魔の試みを受けられました。この事は神の御計画で、イエス・キリストは宣教の働きを始める前に、悪魔の試みを受け勝利しなければなりませんでした。悪魔はイエス・キリストが神の子であることが証明されると、イエスに挑戦してきたのです。それも、イエスが四十日四十夜、断食した後のイエスが空腹の時を狙って攻めてきました。3節「すると、試みる者が近づいて来て言った。『あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。』」4節「イエスは答えられた。『人はパンだけで生きているのではなく、神の口から出る、一つ一つのことばで生きる』と書いてある」この悪魔の誘惑の表面の意味は、「あなたは神の子だから、お腹がすいたら目の前にある石をパンに変えてお腹を満たせばよいではありませんか」という意味です。悪魔の本当の狙いは、イエス・キリストに自分の必要のために奇跡を起こさせることでした。それは、神の計画に反することであり、最初から宣教の働きをつまずかせるためだったのです。イエスは悪魔の計画を知っていたので、旧約聖書の申命記8章3節のことばで悪魔の試みを退けました。「それで主はあなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの父祖たちも知らなかったマナを食べさせてくださった。それは、人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのことばで生きるということを、あなたがたに分からせるためであった。」この出来事は、モーセを通してイスラエルの民、男性だけで60万人という群衆がエジプトから旅立ち、荒野で40年さまよい歩いた時の出来事です。その原因は彼らの神への不従順でした。神は荒野で四十年イスラエルの民にマナという食べ物を与えました。それは、イスラエルの民が自分たちは、神によって養われていることを学ぶためでした。イエスはそれをマナという食べ物ではなく、人は、自分の欲望や必要を満たすために生きるのではなく、神のことば、神の御計画に従って生きるべきだと言って悪魔の試みを退けられたのです。
マタイの福音書4章5節6節「すると悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、こう言った。『あなたが神の子なら、下に身をなげなさい。「神はあなたのために御使いたちに命じられる。彼らはその両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする」と書いているから。』」これは旧約聖書の詩篇91篇11節12節の御ことばです。イエスは先程、旧約聖書申命記の御ことばで答えられたので、今度は、悪魔も旧約聖書の御ことばでイエスを試みたのです。悪魔も聖書の御ことばを用いるとは驚きです。7節「イエスは言われた。『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」この御ことばは、申命記6章16節「あなたがたがマサで行ったように、あなたがたの神である主を試みてはならない。」の引用です。この出来事は、荒野で水に渇いたイスラエルの民が苦しみの中で「神はいるのかいないのか」と、モーセと争った時の出来事です。神はモーセに石を打つように命じました。モーセが岩を打つと、岩から水があふれ出たという出来事です。確かに神殿の屋根から飛び降りて、御使いたちが助けて傷一つなければ、人々は驚き、イエスを神と崇めることでしょう。しかし、イエスは人を驚かせて教祖のようにあがめられるために人となられた方ではありません。また、イエスは人の病を癒しても人に自分が癒したということを黙っているように命じました。それは、人々が自分の事を誤解しないようにするためでした。「神である主を試みる」とは、神に奇蹟を強要することによって(人々を驚かせ)宣教をすることです。しかし、それは神の御心ではありません。
マタイの福音書4章8節9節「悪魔はまた、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて、こう言った。『もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。』」10節「そこでイエスは言われた。『さがれ、サタン。「あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい」と書いてある。』」これは申命記6章13節「あなたの神、主を恐れ、主に仕えなさい。また御名によって誓いなさい。」の御ことばの引用です。この個所は、イスラエルの民に偶像の神々に仕えるのではなく、主にのみ仕えることを戒めた御ことばです。イエス・キリストは、なぜ、神の姿を捨てて人として誕生されたのでしょうか。イエス・キリストがこの世界を支配し、地上に神の国を完成されたとしても、私たちの罪の問題は解決されません。イエスがこの地上に人として誕生されたのは私たちの罪の問題を解決するためです。また、そのためにご自分のいのちを十字架の上で犠牲とされたのです。それを、悪魔は私に仕えるなら、簡単に世界を支配し、この地上に神の王国を建設できると誘惑したのです。
これまでの悪魔の誘惑の目的は、神の御計画からイエスを間違った方向に導くことでした。そのために、悪魔はこの三つの試みを通して、イエス・キリストに、自分の必要のために奇跡を行いなさい。また、人々から尊敬されるために、人々の関心を得るために奇跡を行いなさい。また、私(悪魔)と協力すれば、世界を支配し、簡単に神の国をこの地上に建設できると誘惑したのです。この三つの試みはどれも神の働きに反する働きでした。イエスは悪魔の試みを退けることによって、神の供えられた道を歩まれたのです。
ある時、イエスが弟子たちに、自分がエルサレムに行って長老たち、祭司たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められたとあります。すると、ペテロがイエスをわきにお連れして、いさめ始め、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません」しかし、イエスは彼に言われました。「さがれ、サタンあなたは、わたしをつまづせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」ペテロは良かれと思ってイエスをいさめましたが、しかし、それは、神の計画を阻むことで、サタンの働きだとイエスはペテロの考えを退けられたのです。
ここで、一つ気が付くことは、イエス・キリストは悪魔の試みに対して、聖書のことばで対抗しているということです。イエスは簡単に悪魔を退けることは出来たでしょう。しかし、イエスはあえて、悪魔の試みを受け、聖書のことばで誘惑を退けられたのです。それは、私たち人間の為です。私たちも悪魔の試みを受けます。その時に、自分の知恵、力で悪魔の誘惑に勝つことは出来ません。私たちが悪魔の試みを退けるためには、イエスと同じように神のことばを用いなければ、誘惑を退けることはできないのです。また、悪魔も聖書のことばを利用してイエスを試みました。それゆえ、私たちも聖書を学ばなければ、簡単に騙されてしまいます。悪魔は人間よりも賢く力のある存在です。イエスはそのために、悪魔の試みを受け、聖書のことばで悪魔の試みを退けられました。それは、私たちが悪魔の誘惑に対して御ことばで対抗するためだったのです。