救い主としてのしるしと奇蹟

マルコの福音書6章30節~56節

今日共に学びます「五つのパンと二匹の魚」の奇蹟は、マタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書、ヨハネの福音書に登場する有名なお話です。なぜ、この四人の聖書の著者たちはこの出来事を福音書の中に記したのでしょうか。マタイ、マルコ、ルカの共観福音書の著者は、イエスが、男性だけで五千人以上の人々を五つのパンと二匹の魚を増やして養った(満腹にした)奇蹟に重点が置かれています。またヨハネの福音書においては、奇蹟の後のイエスと群衆との議論に重点が置かれています。神のことばである、聖書を記録した四人の著者はどのような思いでこの出来事を聖書に記したのでしょうか。

1、イエスとモーセ

イエスのお話を聞こうと、彼の周りに多くの人々が集まっていました。イエスのお話を聞いているうちに、時刻も遅くなったので弟子たちはイエスのところにきて言いました。

35節36節「ここは人里離れたところで、もう遅い時刻になりました。皆を解散させてください。そうすれば、周りの里や村に行って、自分たちで食べる物を買うことができるでしょう。」

イエスは彼らに答えて言われました。

37節「あなたがたが、あの人たちに食べる物をあげなさい。」

弟子たちはイエスに言いました。

37節「私たちが出かけて行って、二百デナリものパンを買い、彼らに食べさせるのですか。」

一デナリは、一日の労働賃金と言われています。それを考えると二百日分の労働賃金に値する金額です。これは弟子たちにとっては大きな金額です。

イエスは彼らに言いました。

38節「パンはいくつありますか。行って見て来なさい。」

彼らは確かめてイエスに報告しました。「五つです。それと魚が二匹あります。」

この五つのパンと二匹の魚は、ヨハネの福音書では子供が持っていた食べ物であると書いてあります。弟子たちはこのとき食べ物を持っていませんでした。アンデレはこの食べ物を見て「こんなに大勢の人々では、それが何になりましょう。」(ヨハネの福音書6章9節)とイエスに言っています。イエスはこの群衆を百人、五十人と固まって座らせました。そして五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて祝福を求め、パンを裂き、人々に配るように弟子たちに与えました。また、二匹の魚もみなに分け与えられました。

42節「彼らはみな、食べて満腹した。」とあります。

さらに、残ったパンくずを集めると十二かごにいっぱいになりました。

ヨハネの福音書6章14節ではこのように書かれています。

「まことにこの方こそ世に来られるはずの預言者だ」言ったとあります。

この奇蹟を体験した人々はどう思ったことでしょうか。ユダヤ人はこどもの頃から旧約聖書のことばを覚えるように教育されています。それゆえ、この出来事は、旧約聖書のモーセが荒野でイスラエルの民にマナという不思議な食べ物を与えたことを思い出させたのではないでしょうか。旧約聖書の出エジプト記で、モーセによってエジプトから助け出された男性だけで60万人が荒野に入りました。そこでイスラエルの民は食べ物がない飲み水がないとモーセに不満をぶつけたのです。モーセは神に助けを求め祈りました。そして与えられたのが「マナ」という不思議な食べ物でした。神は荒野での40年間このマナという食べ物で、男性だけで60万人というイスラエルの民を養ったのです。人々は、この奇蹟を通してイエスをモーセのような預言者ではないかと信じたのです。

2、イエスと永遠のいのち

ヨハネの福音書の著者ヨハネは、この福音書を晩年になって書いたと言われています。彼はイエスの死と復活の後、何十年と時間をかけて、イエスの生涯について黙想しこの福音書を書いたのです。特に、五つのパンと二匹の魚の奇蹟について、ヨハネはイエスのことばを通して、この奇蹟の意味を私たちに伝えています。イエスは彼らに言われました。

ヨハネの福音書6章26節27節「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。この人の子に神である父が証印を押されたのです。」

群衆はイエスに言いました。

31節「私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。『神は彼らに、食べ物として天からのパンを与えて食べさせた。』と書いてあるとおりです。」

イエスは彼らに言われました。

32節33節「まことに、まことに、あなたがたに言います。モーセはあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。わたしの父が、あなたがたに天からのまことのパンを与えてくださるのです。神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものなのです。」

35節「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」

群衆はイエスのこのことばを聞いてつまずいたとあります。さらにイエスは群衆に言われました。

51節「わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。そしてわたしが与えるパンは、世のいのちのためのわたしの肉です。」

58節「これは、天から下って来たパンです。先祖が食べてなお死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」

モーセによってマナという食べ物が荒野での40年間与えられました。確かにこのマナによってイスラエルの民は荒野で40年間生かされました。しかし、その後、彼らも死を迎えました。誰もこのマナによっては永遠の命は与えられなかったのです。しかし、イエスは神(父)によって自分がこの世に遣わされたのは、自分(イエス)を信じて永遠のいのちを得るためだと言われました。では、イエスはどのようにして私たちに永遠のいのちを与えられるのでしょうか。それは十字架の死によってということです。イエスは神の子(罪がない)であるのに、私たちの罪を背負って十字架の上でご自分の命を犠牲にしてくださいました。神の子が私たちの罪の代価をご自分のいのちで支払われたのです。私たちの罪は、イエス・キリストのいのちの代価によって取り除かれ、罪が赦された者とされたのです。しかし、そのために私たちはイエスが神のであることを信じなければなりません。聖書はそのために書かれた書物です。イエスは言葉を通して、奇蹟をとおしてご自身が神の子であることを証明されました。次にマルコの福音書6章45節から書かれてあるイエスが湖の上を歩いて弟子たちの舟の近くまで来られた奇蹟のお話も、自然の法則に支配されないイエス・キリストの姿を表した奇跡です。どのようにしてイエスが湖の上を歩かれたのか、その方法を私たちは説明することはできません。また、イエスがどのようにしてパンと魚を増やしたのかもその方法はわかりません。ただ聖書が私たちに教えていることは、イエス・キリストは神の子であり、私たちと同じ肉体は持って生まれましたが、神の子としての本質は変わらないということです。それは、イエスには罪がないこと、自然を治める力(権威)があるということです。それを証明しているのが、イエスの奇蹟であり、十字架の死と復活なのです。イエス・キリストとは誰なのか、私たちと同じ人間なら、イエスの復活も奇蹟も信じることができません。イエスを神の子と信じる者だけが、イエスの復活と奇蹟を信じる者となるのです。