救い主の誕生の準備

「救い主の誕生の準備」マタイの福音書3章1節~3節

何かのイベントを行う場合、十分な準備が必要です。そのイベントの規模が大きければ大きいほど、また、重要であればあるほど、準備に時間をかけます。救い主イエス様の誕生のために神様はどれぐらいの時間をかけ、どのような準備をされたのでしょうか。

1、 救い主誕生の理由。
なぜ、イエス様は神の子であられるのに、人として生まれなければならなかったのでしょうか。旧約聖書のはじめ、創世記の1章には、神様が全てのものを6日間で創造され7日目に休まれたとあります。また、27節においては、神は人をご自身のかたちとして創造されたとあります。そして、神は人に地上を治める権威をお与えになられました。神様はそれほど人を愛し信頼しておられたのです。その、神様の信頼を裏切ったのが人間です。神様は人に、園にある木の実から自由にとって食べてもよいといわれましたが、善悪の知識の木からは取って食べてはならない、それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬと言われました。しかし、創世記の3章でヘビがエバに近づき彼女を誘惑しました。ヘビは彼女に、善悪の知識の木からとって食べるなら、あなた方の目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになると誘惑しました。アダムとエバは神様との約束を捨てて、ヘビ(悪魔)のことばに従ってしまいました。しかし、二人が善悪の知識の木の実を食べても神様のようにはなれませんでした。それどころか、二人は神様の前に罪を犯し、神の声を聴いて恐れ、身を隠してしまいました。その結果、二人はすぐには死にませんでしたが、神様との親しい関係を失いエデンの園から追い出されてしまいました。神様は罪を犯した二人に罰として、女性には産みの苦しみ、男性には労働の苦しみを与えられました。しかし、この時から、神様は人間との和解の計画を始められたのです。創世記3章15節にある、おまえ(へび)の子孫は悪魔を指し、女の子孫はイエス様を指しています。「おまえは、彼のかかとにかみつく」とは、悪魔がイエス様を十字架につけて殺すことを意味しています。また、「彼(女の子孫)は、おまえの頭を踏み砕く」はイエス様が死から復活して悪魔の計画を完全に滅ぼすことを意味しているのです。罪を犯したのは人間です。本来、人間はその時に滅ぼされても仕方がない者でした。しかし、神様は私たちを愛しておられる故に、ご自身の子イエス様によってもう一度、神様と人間との親しい関係を回復させるために、イエス様を人として誕生させられたのです。しかも、十字架につけて殺すために。

2、 神様の準備。
神様は、すぐにイエス様をこの地上に送られたわけではありません。神様は私たちに救い主の誕生の意味を理解させるために十分な時間をかけられました。

神様の救いの準備。(1)ノアの箱舟(虹の契約)。(2)アブラハムとの契約(3)イスラエルの民(モーセによる神との契約・十戒)(4)預言者による神様のことば(旧約聖書)(5)バプテスマのヨハネ。

旧約聖書はマラキ書で終わっています。そしてすぐに新約聖書のマタイの福音書がはじまります。しかし、実は、マラキ書とマタイの福音書の間には、約400年の時が流れています。この400年の間、神様のことばはイスラエルの民に与えられませんでした。神様は400年の沈黙を破られて、バプテスマのヨハネに神のことばを授けられたのです。その時に与えられた神様のことばが、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」というメッセージでした。バプテスマのヨハネは新約聖書に登場する人物ですが、彼は、旧約聖書の最後の預言者として数えられています。なぜなら、彼の登場は旧約聖書の預言者によってイスラエルの民に伝えられていたからです。マタイはそのために旧約聖書イザヤ書のことばを紹介しました。イザヤが預言した「主の道を用意し、主の道をまっすぐにせよ。」ということばは、ユダヤ人たちの罪を指摘し、悔い改めさせることを意味していました。なぜなら、彼らは自分たちはアブラハムの子孫であるから罪がないと教えられていたからです。

当時のユダヤ人にとって、バプテスマのヨハネのことばは衝撃的であったと思われます。人々は彼のことばによって、罪が指摘され、多くの人々がバプテスマのヨハネのもとに集まり彼から洗礼(バプテスマ)を受けたのです。

3、 現在の私たちの準備。
では、私たちはクリスマスを迎えるに当たってどのような準備が必要でしょうか。イエス様が生まれる前に、バプテスマのヨハネが誕生したのには意味があると思います。また、バプテスマのヨハネはイエス様より前に、宣教の働きを始めました。そして、彼のメッセージは悔い改めでした。私たちは、血筋でいえば、アブラハムの子孫ではありません。また、律法により神様と契約を交わしたイスラエルの民ではありません。しかし、私たちはどれ程、自分の罪の大きさを理解しているでしょうか。もし、自分の罪を認めてもその罪の大きさが小さいものであるなら、イエス様による救いの恵みも小さなものになってしまいます。私たちの罪は大きく、神の子を十字架で殺さなければ救われないほど大きなものです。しかし、神様はそれほど大きな犠牲を払って、私たちを救ってくださいました。そこに、クリスマスの喜びがあります。クリスマスの美味しい料理を食べるよりも、クリスマスプレゼントをもらう以上にうれしいことが、自分の罪が赦され、永遠のいのちが与えられることです。なぜなら、この永遠のいのちは、お金で買うこともできず、神の子のいのちが犠牲とされた大切ないのちだからです。私たちはこの素晴らしいプレゼントを神様からクリスマスプレゼントとしていただきました。今年のクリスマスは、神様から与えられた永遠のいのちを感謝して過ごすクリスマスとなるようにお祈りします。