本当に幸いな人

マタイの福音書5章1節~12節

マタイの福音書5章1節から7章29節は、イエスが山に登り弟子たちと群衆に教えられた有名な教えで、「山上の垂訓」とか「山上の説教」と呼ばれる個所です。その説教の最初にイエス・キリストは本当に幸いな人とはどういう人なのかを教えています。「幸い」とは、人によってその感じ方が違います。それゆえ、何が幸いであるかを特定することは意味がありません。有名な先生が幸いとはこういうことだと教えても、共感できる人もいれば、共感できない人もいます。また、年齢や環境によっても違いがあります。私が若い頃はお金がたくさんあれば幸いな人生だと考えていましたが、60歳を過ぎると、お金があるよりも健康の方が幸いだと感じるようになりました。マタイの福音書5章でイエス・キリストが話された「幸いな人」とは、イエス自身が感じている幸いです。それは、神の目から見た「本当に幸いな人」という意味です。それは、私たちの感覚では理解できないことですが、人間が気付かない本当の幸いな者の姿を神がイエスを通して、私たちに教えられたのが山上の説教の最初の部分なのです。
(1)心の貧しい者は幸いです
初めてこの個所を読んだ時、どうして「心の貧しい者が幸い」なのかわかりませんでした。私たちの考えでは、「心の豊かな者が幸いである」と考えます。この貧しいとは、欄外に「霊において貧しい者」と注釈があります。そのことから、この貧しさとは、金銭的な貧しさではないことがわかります。「霊的貧しさ」とは、心が神を求めて渇望している状態を指します。この世の物で心が満たされている人は、神を求める心がありません。満腹の人にどんなに高級料理を差し出しても食欲が起こらないように、この世の物で心が満たされている人に神の事を伝えても聴く耳がありません。しかし、神を求める人は、どんなことでも聞き逃さないようにどん欲に神を求めます。それゆえ、イエスは3節「天の御国はその人たちのものだからです。」と言われたのです。
(2)悲しむ者は幸いです
「悲しむ者」はなぜ、幸いなのでしょうか。これもこの世の知恵では理解できません。新約聖書の中で、イエスが近づいた人々は、貧しい人々や罪人と社会から拒絶された人々でした。律法学者パリサイ人たちは彼らを忌み嫌い、近づいたり、一緒に食事することさえ禁じていました。イエス・キリストはそのような疎外された人に近づき友となられました。決して律法学者パリサイ人たちとは親しくされませんでした。そういう意味で、神はそのような貧しい人々、社会から孤立した人々を愛し、慰められました。それゆえ、イエス・キリストは4節「その人たちは慰められるからです」と言われたのです。
(3)柔和な者は幸いです
「柔和な者」とは、欄外に「へりくだった者」と記されています。「へりくだる」とは自分を他者より低くすることです。それは「高慢」の反対です。高慢な者は人の意見を聞きません。自分こそが正しく知恵があると信じています。そういう人に何を言っても通じません。謙遜な者(柔和な者)とは、自分を低くし、他人の意見に耳を傾ける者です。また、それは神のことばに対しても同じです。最初から神を否定する者に聖書のことばを伝えても、初めから受け入れません。柔和な者とは、神の前にへりくだり、神のことばを信じる者です。それゆえ、イエス・キリストは5節「その人たちは地を受け継ぐからです」と言われたのです。
(4)義に飢え渇く者は幸いです
「義に飢え渇く」とは、正義を求める生き方です。しかし、この世においては、正義を追い求めても報われないことが多くあります。不正を犯しても人の上に立ちたいと思う社会。ばれなければ不正をしてでも私腹を肥やす社会です。正直者が損をする報われない社会です。そのような正直者には生きにくい社会であっても正義、正しさを求める生き方をする人こそ「義に飢え渇く者」です。そんな「義に飢え渇く者」にイエスは言われました。6節「その人たちは満ち足りるからです。」本当の正義を求める人が神と出会うことによって、神の義、本当の義を知ることによって、その人の心は神によって満たされるのです。
(5)あわれみ深い者は幸いです
あわれみ深い者とは、貧しい者、困っている者に助けの手を伸べる者です。律法学者パリサイ人たちは、罪人や貧しい者に対して、自分たちの聖さを守るために、あわれみの心を閉ざしていました。イエスは「良きサマリア人」のたとえを通して、律法学者パリサイ人たちの過ちを責めたのです。イエスは彼らに言われました。7節「その人たちはあわれみを受けるからです。」貧しい者にあわれみの手を差し伸べる者は神からあわれみを受ける人です。
(6)心のきよい者は幸いです
「心のきよい者」とは、まざりもののない、純粋な者、二心を持たず、一心に神を求める者です。イエスは二人の主人に仕えることは出来ないと言われました。マタイの福音書6章24節「だれも二人の主人に仕えることは出来ません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。」神と富のどちらかだけではありません。日本は多くの神々をあがめる多神教の国です。それを信仰深いと勘違いしています。偶像礼拝は自分中心の信仰であり、唯一の神を冒涜することです。真の神だけを求める、心のきよい者こそ真の神と出会う人です。それゆえイエスは8節「その人たちは神を見るからです。」と言われたのです。
(7)平和をつくる者は幸いです
「ピースメーカー」とは、周りを楽しくさせ、その人がいることによって場が楽しくなる人の事です。反対に「トラブルメーカー」とは、その人がいることによって、トラブルが起こり、場の雰囲気を悪くする人の事です。イエス・キリストこそ、平和をつくる者でした。イエス・キリストは、ご自身のいのちを十字架の上で犠牲にすることによって、神との和解の道を作り、神との平和を築かれました。私たちも、平和を作る者になるためには、自分を捨てて、人のために生きることが必要です。トラブルメーカーは自己中心で他人の事を思いやる気持ちに欠けています。自分のためではなく、隣人のために生きる時、イエスは9節「その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」と言われたのです。
(8)義のために迫害されている者は幸いです
イエス・キリストを積極的に迫害したのは、律法学者パリサイ人たちでした。それは、自分たちの教えとは違うイエスの教えを理解しようとはせず、受け入れることが出来なかったからです。また、自分たちの教えが正しく、イエスの教えが間違っていると決めつけ、自分たちの教えを守るために、イエスを迫害し十字架に付けて殺してしまったのです。イエスが死より三日目に復活され、弟子たちにその姿を現した後、イエスは天に昇って行かれました。弟子たちはイエスの復活の証人として、人々にイエスの復活を宣べ伝えました。使徒の働きで、弟子たちを迫害したのは祭司たちサドカイ派の人々でした。彼らは復活を信じていなかったためで、弟子たちがイエスの復活を宣べ伝え出したので、困り果て彼らを迫害したのです。しかし、弟子たちは迫害の中であっても、イエスの復活を宣べ伝えることを止めませんでした。彼らは迫害の中にあっても、天の御国を求めていたからです。イエスは彼らに言われました。10節「天の御国はその人たちのものだからです。」さらにイエスは言われました。11節12節「わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなた方より前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。」
ここまで八つの幸いな人の姿について見てきました。イエス・キリストが私たちに教える幸いとは、この世での幸いの姿とは違ったものでした。なぜなら、この地上の幸いは消えてなくなるものだからです。イエス・キリストが私たちに与えたいものは、天の御国です。天の御国こそ、私たちが永遠に幸いな日々を過ごすことが出来るところだからです。確かに、この地上では、神を信じる者は、迫害を受け、悲しみや苦しみがあるかもしれません。しかし、神は悲しむ者と共におられ、天の御国での平和を約束してくださっています。私たちはその約束を信じて歩むとき、この地上でも幸いな者となるのです。