マルコお福音書10章1節~31節
今日は、マルコの福音書10章を前半と後半に分けて、前半の1節~31節から、「離婚について」「子どものように神の国を受け入れる」ことについて、「永遠のいのち」を得るためには何をしたらよいかについて学びます。
1、離婚について(1節~12節)
2節「すると、パリサイ人たちがやって来て、イエスを試みるために、夫が妻を離縁することは律法にかなっているかどうか質問した。」とあります。ここで、パリサイ人がイエスを試みたという意味は、イエスに律法についての質問をすることによって、イエスの律法に関する知識がどれほどあるかを試したと言う意味です。3節「イエスは答えられた。『モーセはあなたがたに何と命じていますか。』」彼らは言いました。4節「モーセは離縁状を書いて妻を離縁することを許しました。」離縁状については、旧約聖書の申命記の24章にそのことが書かれています。アブラハムの時代から、イスラエルの民は、一夫多妻を認め、男性優位の社会でした。それゆえ、夫が妻を気に入らなければ、簡単に離縁できる状態でした。そのような状況の中で、モーセは女性の立場を守るために、離縁状を書くことを定め、夫の勝手な思いで、妻を離縁できないように、夫が妻を離縁する場合、正当な理由を書いて、妻に離縁状を渡したうえで離縁するように定めたのです。イエスは5節から9節でこのように言われました。5節~9節「モーセは、あなたがたの心が頑ななので、この戒めをあなたがたに書いたのです。しかし、創造のはじめから、神は彼らを男と女に造られました。『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる』のです。ですから、彼らはもはやふたりではなく、一体なのです。こういうわけで、神が結び合わせたものを、人が引き離してはなりません。」イエスは創世記の2章24節のことばを引用して、結婚自体が、神の御業であり、神が結び合わせたものを引き離してはいけないと、離婚について否定的な意見を述べました。キリスト教で結婚した場合、私たちは神の前で誓約をします。新郎に対して「あなたは今、この女子と結婚し、妻としようとしています。あなたは、この結婚が神の御旨によるものであることを確信しますか。あなたは神の教えに従って、夫としての分を果たし、常に妻を愛し、敬い、慰め、助けて変わることなく、その健康の時も、病の時も、富める時も、貧しい時も、いのちの日の限りあなたの妻に対して堅く節操を守ることをいたしますか。」また、新婦に対して「あなたは今、この男子と結婚し、妻となろうとしています。あなたはこの結婚が神の御旨によるものであることを確信しますか。あなたは神の教えに従って、妻としての分を果たし、常に夫を愛し、敬い、慰め、助けて変わることなく、その健康の時も、病の時も、富める時も、貧しい時も、いのちの日の限りあなたの夫に対して堅く節操を守ることを約束いたしますか。」という問いかけに、「はい」と誓約したはずです。それゆえ、神の前で誓約したことを守らないことは、神との約束を破ることになります。それゆえ、神の前で誓約した者は離婚することはできません。ただ、例外として、妻や夫が暴力を受ける場合、いのちを助けるために、離婚を認めることもあります。または、宗教的な理由で離婚を認めることもあるでしょう。
2、子どものように神の国を受け入れることの意味(13節~16節)
13節「さて、イエスに触れていただこうと、人々が子どもたちを連れてきた。ところが弟子たちは彼らを叱った」とあります。両親は、神の祝福にあずかろうと、イエスの所に子どもたちを連れてきたのでしょう。しかし、それを見た弟子たちは彼らを叱ったとあります。当時、子どもは価値がない者、邪魔者と考えられていました。それゆえ、弟子たちは疲れたイエスに子どもたちを近づけまいとして、彼らを叱ったものと考えられます。それを見たイエスは憤って弟子たちに言いました。14節15節「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。まことにあなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」「子どものように神の国をうけいれる」とは、どういう意味でしょうか。小さな子どもは純粋で疑うことがありません。大人は色々なことを人生で経験して、人を疑ったり、約束を疑ったりします。例えば、私が25歳の時に教会に来た時、イエス・キリストは処女のマリアから生まれたと聞いて、素直に信じることが出来ませんでした。私が思ったのは、マリアが他の男性と関係を持ち、それを隠すために、聖霊によって身ごもったと、ヨセフを騙したのだと思いました。復活についても、弟子たちが、イエスが死より復活したと、うそのうわさを流したものと考えました。なぜなら、私がそのような社会で生きてきたからです。誰でも、大人はそのように考えるのではないでしょうか。しかし、小さな子どもは、親から教えられた通り、すなおに、イエス様がマリア様から生まれたことを疑いもなく、信じます。そのように、神のことば、神の約束をすなおに(疑いなく)信じる(受け入れる)ことが子どものように神の国を受け入れることではないでしょうか。
3、永遠のいのちを得るために(17節~31節)
17節から、青年がイエスに「永遠のいのち」について尋ねるために、やって来た有名な出来事が記されています。彼がイエスに尋ねた「永遠のいのち」とは、この地上で永遠に暮らすことではありません。どうしたら天の御国(天国)に入ることが出来るかということです。この問題は、多くの律法学者たちの間で、議論されていることでした。そこで、近頃、有名なイエス・キリストなら何と答えるかを期待して、この青年はイエスの所に尋ねに来たのです。イエスは彼に対して、神がモーセを通してイスラエルの民に与えられた十戒のうち、後半の戒め19節「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。だまし取ってはならない。あなたの父と母を敬え。」と伝えました。それに対して青年は、20節「先生。私は少年のころからそれらすべてを守ってきました。」と答えました。モーセの十戒は旧約聖書の有名な戒めで、彼は、小さいころからユダヤ教を教えられてきたのでしょう。それで、そのような戒めは少年のころから守っていますとイエスに答えたのです。イエスはこの少年に欠けていることが何であるかを見抜いて、彼に言われました。21節「あなたに欠けていることが一つあります。帰って、あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そのうえで、わたしに従って来なさい。」この言葉は、彼にだけ当てはまる言葉ではなく、お金持ちのすべての人に当てはまる問題ではないでしょうか。イエスが彼に求めたことは、永遠のいのちを得るためには、神だけに信頼すると言うことです。彼は、お金に頼りながら、神からの恵みを受けようとしていました。イエス二人の主人に仕えることはできないと言われました。私たちは目に見る財産に頼るか、目に見えない神に頼るか、決断をしなければなりません。イエスはこの青年にその決断を迫ったのです。その結果、彼は、21節「すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。多くの財産をもっていたからである。」とあります。財産があることが悪いことではありません。しかし、人間は弱い者で、目の前の財産が大きければ大きいほど、財産により頼んでしまいます。「永遠のいのち」とは、この地上で永遠に暮らすことではありません。「永遠のいのち」とは、永遠なる神と一つになることです。そのために、私たちは神か富かどちらに仕えるかを決断しなければならないのです。多神教の場合、多くの神々をあがめることが信仰深いとされます。しかし、キリスト教の場合、神と個人的な関係を重視します。結婚と同じように、一人の神と一人の人間が神と契約を結ぶことであって、たくさんの神々と契約を結ぶことは、信仰深いのではなく、神を自分の利益のために利用することです。それゆえ、キリスト教では、一人の神と一人の人間との信頼関係(愛の関係)が大切になってくるのです。また、イエスは弟子たちに23節「富を持つ者が神の国に入るのは、なんと難しいことでしょう。」と言われました。弟子たちはその言葉を聞いて驚いたとあります。多くの財産を持つことは、神の祝福と一般には考えられていました。それゆえ、多くの人々が、お金持ちほど神の国に近いと考えていたのです。しかし、イエスの言葉は世のことばと全くの正反対でした。それゆえ、弟子たちはイエスのことばに驚いたのです。またイエスは弟子たちに言いました。25節「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通る方が易しいのです。」らくだは大きな生き物の代表。針の穴は小さい物の代表で、お金持ちが天の御国に入るよりは、らくだが針の穴を通る方が易しい。それほど、お金持ちが天の御国に入ることが難しいことをたとえたことばです。弟子たちはますます驚いて互いに言いました。26節「それでは、だれが救われることが出来よう。」イエスは彼らをじっと見て言われました。27節「それは人にはできないことです。しかし、神は違います。神にはどんなことでもできるのです。」永遠のいのちは、人間が努力して得る物ではなく、神の恵みによって人に与えられることを示したものです。それを聞いてペテロがイエスに言いました。28節「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。」確かに弟子たちは、家族や仕事を捨ててイエスに従って来ました。イエスは彼らに言われました。29節30節「まことに、あなたがたに言います。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子どもを捨てた者は、今この世で、迫害とともに、家、兄弟、姉妹、母、子ども、畑を百倍受け、来るべき世で永遠のいのちを受けます。」この言葉は、キリスト者として、迫害を受けるが、それでも、この世にて神の祝福もあり、天においても神の祝福がることを示したものです。最後にイエスは31節「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります。」と言われました。先にいる者が後になり、後の者が先になるという言葉は、マタイの福音書では、ぶどう園で働く労務者のたとえでも使われています。このたとえで先の者とは、朝早く雇われた者で、律法学者パリサイ人のように、自分の正しさ義により頼む者たちで、後の者、とは、五時ごろに雇われた者たちで、一時間しか働きませんでした。それは、罪人や貧しい人々を表し、神の恵みを求める人々を表しています。最後に、主人は五時ごろに雇われた者から、賃金を支払いますが、その賃金は一日分の賃金でした。それを見た、朝早く雇われた者は、契約以上の賃金がもらえると期待しましたが、主人が与えたのは契約通りの一日の賃金でした。そこで、朝早くから働いた者たちは主人に文句を言いました。彼らは、朝早くから働いたのですから当然です。しかし、主人の主張は、最後に来て働いた者たちにも一日分の賃金を払いたいのだと言うことでした。それは、もはや、賃金ではなく、主人の好意(恵)でした。イエスはこのたとえを通して、天の御国に入るのは、人の努力や正しさではなく、神の一方的な恵みであることを表したのです。
この青年も、律法学者たちも、永遠のいのちを得るためには、一生懸命、神の戒めを守り、正しい人間にならなければならないと考えました。しかし、イエスは、天の御国は、人間の努力で得る物ではなく、神の一方的な恵みであることを示されたのです。お金持ちは自分の財産により頼み、結局、神に従うことはできません。財産は悪いものではありませんが、財産が私たちを幸せにするわけではありません。私たちのいのちを守り、必要な物を与えて下さる、神が私たちを幸せにするのです。そのことが分からないと、私たちは目に見える財産により頼んでしまうのではないでしょうか。私たちが永遠のいのちを得るためには、この世で生きている間に、財産か神かどちらに仕えるか、一つを選ばなければならないのです。