マルコの福音書6章45節~56節(マタイの福音書14章22節~31節)
先週は、五つのパンと二匹の魚で男性だけで五千人以上の人々の、お腹を満たしたという有名な奇跡から学びました。今日は、その続きで、湖の上をイエスが歩いて弟子たちの舟に近づいてこられた奇跡から学びます。この出来事は、マタイの福音書とマルコの福音書に記されています。特に、この個所は、マタイの福音書のほうが詳しく書かれておりますので、マタイの福音書を通してこの奇跡の意味を考えます。
マタイの福音書14章22節「それからすぐに、イエスは弟子たちを舟に乗りこませて、自分より先に向こう岸に向かわせ、その間に群衆を解散させられた。」とあります。マルコの福音書6章45節では、「むりやり弟子たちを舟に乗りこませた」とあります。五つのパンと二匹の魚で男性だけで五千人以上の人々のお腹を満たすというイエスの奇跡を体験した人々は、興奮して、イエスを捕らえ王に祭り上げようとしたとヨハネの福音書にありました。イエスはそのような働きに弟子たちを巻き込ませないために、弟子たちを先に舟に乗せて、向こう岸に出発させたのです。そして、イエスは、群衆を解散させると、祈るために一人、山に登られました。弟子たちはその間、先に舟で出発したのですが、向かい風であったために、波に悩まされて思うように先に進めずにいました。マルコの福音書では、イエスは彼らの舟の近くを通り過ぎるつもりであったとあります。マタイの福音書では、イエスが湖の上を歩いて近づいてこられるのを見て、「あれは幽霊だ」と言って弟子たちが、おびえて叫び声をあげたとあります。マタイの福音書14章27節「イエスはすぐに彼らに話しかけ、『しっかりしなさい。わたしだ。おそれることはない』と言われた。」ここで、マタイの福音書では、ペテロが28節「するとペテロが答えて、『主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください』と言った。」とあります。ペテロはどういう思いで、このような大胆な願いをイエスに言うことが出来たのでしょうか。それは、彼が、初めからイエスと共にいて、多くの奇跡を体験したからではないでしょうか。もちろん、ペテロの兄弟アンデレもヨハネとその兄弟ヤコブも同じ時期に、イエスに従ってきたのですが、ペテロの積極的な(単純な)性格が、そのような大胆な願いをイエスに申し出た理由だと考えられます。イエスは彼に「来なさい」と言われました。そこで、ペテロは舟から出て、湖の上を歩いてイエスのほうに行ったとあります。ペテロは信仰によって湖の上を歩き、イエスの方に向かうことが出来ました。30節「ところが強風を見て怖くなり、沈みかかたので、『主よ、助けてください』と叫んだ。」とあります。31節「イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかんで言われた。『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。』」32節「そして二人が舟に乗り込むと、風はやんだ。」とあります。マルコはこのペテロの出来事は、はぶいて、イエスが舟に乗り込むと風はやみ、弟子たちは非常に恐れ驚いたと記しています。マタイの福音書では、弟子たちは「まことにあなたは神の子です」と言って、イエスを礼拝したとあります。
この出来事は、私たちに何を教えているのでしょうか。ペテロの姿は私たちの姿を表しているのではないでしょうか。信仰とは、神の存在を信じることだけではなく、その権威と力を信じることです。この場面で、ペテロは、イエスのことばがあれば、自分のような者でも湖の上を歩くことが出来ると信じました。実際に、ペテロは舟から降りて湖の上を歩くことが出来ました。30節「ところが強風を見て怖くなり、沈みかけた」とあります。ペテロは強風を見て、イエスの権威と力を疑ってしまいました。私たちはこの世の中で生活しています。それゆえ、この世の権力や力がいかに大きな力があるか、自然に身に着け、常識やこの世の考えに縛られています。しかし、イエスは神の子であり、神より、この世の権力よりも大きな権威が与えられているお方です。それは、今までの奇跡を通して弟子たちも、私たちも学んできました。ところが、先ほどの世の力や常識に縛られているため、イエスの権威と力を疑ってしまいます。これを「不信仰」と呼びます。この世の権力と力が小さく見えるとき、神の権威と力が大きく感じますが、この世の権威力が大きく感じるとき、イエスの権威、力が小さくなり、世の常識に縛られ、不信仰な思いに支配されてしまいます。それは、イエスの権威を信じて舟から降りたペテロが、強風を見て恐れて沈みかけたのと同じ状態です。そんな時、ペテロはどうしたでしょうか。彼は30節「『主よ。助けてください』と叫んだ。」
とあります。ペテロはイエスに助けを求めました。するとイエスは手を伸ばして、彼をつかみ、舟に引き上げてくださったのです。ここにペテロの信仰の姿があります。彼は、イエスに助けを求めたのです。信仰とは、神の権威、力を疑わないことではありません。失敗しても神に助けを求めることです。これが「悔い改め」です。私たちは弱い者ですから、失敗したり、不信仰になりやすい者です。しかし、そこで誰に助けを求めるかが大切です。イエスはすぐにペテロに手を差し伸べて助けてくださいました。
信仰の父と呼ばれるアブラハムも失敗の多い者でした。神を信じて、カナンの地を目指して旅立ちましたが、エジプトに入るときに、神に頼らないで、世の知恵にならい、自分の奥さんを妹と偽ってエジプトに入りました。それは、アブラハムが神より、エジプトの権威、力を恐れたからです。しかし、アブラハムは自分の妻をエジプトの王に奪われてしまいました。それを助けたのは神でした。他にも、神の約束を信じることが出来ずに、奥さんの女奴隷を妻に迎え入れ、子を産ませてしまいました。その生まれた子は、神の約束の子ではなかったために、後に、母親と共に追い出すことになってしまいました。そんな、失敗の多いアブラハムでしたが、神はアブラハムとの約束を守り、アブラハム百歳、妻のサラ九十歳のときに約束通り、高齢の二人にこどもが生まれたのです。本来、神との約束が守れなかった場合、神から退けられたり、災いが与えられたりしますが、アブラハムは、失敗はしましたが、神から離れず、悔い改めて、常に、神の助けを求めました。神は、神に助けを求める者を捨て去ることはありません。私たちの信仰が守られているのは、私たち自身の力ではなく、神の忍耐と愛のおかげです。そのために、私たちに必要なことは、父と子の関係です。困ったときに、子が父に助けを求めるように、神に信頼して、助けを求めることです。神にはできないとあきらめるのではなく、また、自分など神が助けてくれないとあきらめないで、神に信頼して、助けを求め続けることです。神は、必ず私たちの祈りに答えて下さるお方です。
イエスのたとえ話に「放蕩息子」の話があります。ある人に二人の息子があり、末の息子は、将来自分が受け取る財産を父に求め、それを受け取ると、遠い国へ旅立っていきました。そこで、彼は財産を使い果たし、食べるにも困ってしまいました。そこで、彼は、父の所での豊かな生活を思い出し、父のもとに帰る決心をしました。(これが悔い改めです)彼が父の家に近づくと、父が彼を見つけ、走り寄り口づけをして、彼を受け入れ、彼のために喜んで宴会を催しました。ここで、大切なことは、この息子は自分の財産を受け取り、出て行き、好き勝手な生き方をして破産した者です。しかし、父はそんな彼を咎めることなく、愛をもって受け入れました。本来、彼は自分勝手に家を出て破綻した者で、彼が家に帰ってきても、追い返されても仕方がない者です。(彼の兄は、父が弟を何の咎もなく家に受け入れたことを非難しています。)しかし、父は彼を責めることなく、息子を受け入れました。イエスは、この父の姿を通して、神の愛の姿を伝えたのです。この父の姿が神の愛です。私たちが信じる神は、遠くから宇宙を眺めている神ではなく、助けを求める者に手を差し伸べてくださる神です。私たちに必要なことは、失敗しない完全な信仰を持つことではなく、失敗しても、ペテロやアブラハムのように、自分の弱さを受け入れ、悔い改めて、神に助けを求める、すなおな信仰(悔い改める心)を持つことなのです。