父なる神に祈る特権

「父なる神に祈る特権」ルカの福音書11章1節~13節

神に祈ることができるのは人間だけです。いくら人間に近いと言われる猿さえ、神に祈ることはできません。それは、神様が私たち人間を他の動物とは違い、特別に神様に似せて創造された故です。毎年、日本では初詣に多くの人々が神様に祈るために神社にお参りに集まります。その数を人口の比率で考えるとかなり高い数値になるのではにでしょうか。それほど多くの日本人が初詣に神社に集まるのに、私は「神道を信じています。」という人はわずかです。それは、神様の存在はなんとなく信じるが、その神がどのような神であるのかわからないと言う事です。それゆえ、困った時には神様に助けを祈るが、普段は神様を必要としていないので祈らないと言う事です。

私の今までの歩みを考えると、子供の時から、困ったことが起きると、神様にお祈りしました。そして、その祈りが叶えられると、やっぱり、神様はいると感じますが、祈りが叶えられないと、やっぱり、神様はいないと失望するのでした。ただ、私は、歴史の授業を通して、人間の計画を超えて神様が歴史を動かしているのではと考えていました。この世界は偶然に動いているのではなく、何かの意思によって動かされていると感じていました。その歴史を動かしている存在こそ神様ではないかと考えていたのです。そして、大人になり、教会に通うようになり、自分の考えが間違いでないことを知りました。この世界を創造された神様がおられ、その神様によって歴史は作られている。聖書を通してそれを知った時、あらためて聖書の神様を信じようと思ったのです。

ルカの福音書11章の1節を見ると、弟子たちがイエス様に祈りを教えてくださいと申し出ました。そこで、イエス様が弟子たちに教えられたのが、有名な主の祈りのことばです。マタイの福音書では、祈りについてのお話の中から、イエス様は弟子たちにこのように祈りなさいと、主の祈りのことばを弟子たちに教えています。マタイの福音書とルカの福音書では、少しことばに違いはあります。しかし、根本的には同じ事を教えています。まず第一に誰に祈るかと言う事です。マタイもルカも父なる神に祈るように教えています。このことは、ユダヤ教の中では、ありえない事でした。なぜなら、ユダヤ人にとって、神様は偉大なお方であり、父と呼びかけることは許されなかったからです。しかし、イエス様は、弟子たちに子供が父にお願いするように、「父よ」と呼びかけるように教えられたのです。先程、私は、子供の頃、神様の存在は信じていたが、どのような神様か知らなくて祈っていたとお話ししました。お願い(お祈り)するのに、その相手がどのような人かしらないという事があるでしょうか。特に、大切なことを知らない人にお願いするでしょうか。それこそ、だれにお願いするのか、その人がどのような人であるのかがわかれば、どんな事でも喜んでお願いすることができるのではないでしょうか。ましては、自分を愛している父であるならなおさらのことです。祈りとは、私たちを愛しておられる父なる神にお祈りすることです。それゆえ、祈りは、神様が人間だけに与えられた特権なのです。

ルカの福音書11章5節からのことばは、マタイの福音書には出てこない、イエス様のたとえ話です。ここでイエス様が弟子たちに教えようとされているのは、熱心に祈り続けることの大切さです。8節「あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないでも、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要なものを与えるでしょう。」友だちですらそうなら、父なる神は、必ず必要なものは与えてくださると言う意味です。また、9節10節で、「わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求めるものは受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」とあります。この言葉は、マタイの福音書と同じですが、ルカは、特に祈りについて、熱心に求めるものは必ず与えられることを強調して用いているのです。

11節から13節のことばも、少しマタイとルカでは違います。しかし、弟子たちに教えようとしていることは同じです。この世の父親でさえ、子供に良いものを与えようとするなら、なおさら、父なる神は、私たちに必ず、必要なものを与えてくださるという教えです。ルカの福音書の13節「聖霊」とは、神様の御心のことです。この箇所で大切なことは、祈りは必ず叶えられるから何でも熱心に祈りなさいと言う意味ではありません。イエス様が言われたことは、「良い物」を与えると言うことです。願ったものすべてではありません。そこが、他の宗教の祈りとは違うところです。先ほどの、初詣のお話で、多くの人々は、家内安全を祈り、受験の人であれば合格を祈願します。それは、一方的な願いで、言わば、自己中心的な祈りです。しかし、イエス様が弟子たちに教えられた祈りは、神様と対話する祈りです。「御名があがめられますように。」とは、そのような意味です。祈りとは、何でしょうかそれは神様が人間だけに与えられた特権です。それは、神様が人間と対話することを許されたと言う事なのです。神様は私たちの祈りを何でも叶えてくださるという事ではありません。神様は祈りを通して神様の御心を示して下さり、私たちが何を願うことが正しいことなのかを教えてくださるのです。何でも願いを叶える神様を信じることは恐ろしいことです。人間の欲望は際限がありません。本当の神様は私たちに必要な物だけを与えてくださる神様です。時として、私たちが願ったものではない場合もあります。しかし、私たちが神様の前に謙遜になる時、神様の考えを知ることができます。それが、本当の祈りであり、神様が私たち人間に与えてくださった特権なのです。それを知る時、私たちは神様の前に、謙遜になって父なる神様に喜んで祈ることができるのです。