マタイの福音書8章5節~10節15章21節~28節
ユダヤ人はアブラハムの子孫として、神に祝福された特別な民というプライドを持っていました。それを「選民意識」と言います。そして、彼らはユダヤ人以外の民族を「異邦人」と呼び、彼らを汚れた民として蔑んでいました。バプテスマのヨハネが宣教を始めた時、彼はこのように呼びかけ彼らの選民意識を批難しました。マタイの福音書3章9節「あなたがたは、『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で思ってはいけません。言っておきますが、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起すことができるのです。」今日は、ユダヤ人が嫌った異邦人から彼らの信仰について学びます。
- 百人隊長(マタイの福音書8章5節~10節)
マタイの福音書8章5節6節「イエスがカペナウムに入られると、一人の百人隊長がみもとに来て懇願し、『主よ、私のしもべが中風のために家で寝込んでいます。ひどく苦しんでいます。』と言った。」7節「イエスは彼に『行って彼を治そう』と言われた。」とあります。ここにイエス・キリストが人を人種や職業において差別をしない姿勢を見ることが出来ます。この百人隊長はイエスのことばに驚きました。まさか、ユダヤ人のラビ(教師)であるイエスが、異邦人である自分の家に来てくださるなど予想もしていないことでした。彼はイエスに言いました。8節「しかし、百人隊長は答えた。『主よ、あなた様を私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば私のしもべは癒されます。』」この百人隊長はユダヤ教に詳しく、ユダヤ人が異邦人の家に入ることを禁じられていることを知っていて、「私の屋根の下にお入れする資格はありません」と答えたのです。ここに百人隊長の謙遜な姿を見ます。彼がなぜ、イエスに「おことばを下さい」と願ったのか。それは彼の立場(職業)と関係があります。彼は続けてイエスに言いました。9節「と申しますのは、私も権威の下にある者だからです。私自身の下にも兵隊たちがいて、その一人に『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをしろ』といえば、そのようにします。」彼は仕事柄、権威ある者のことばには人を従わせる力がある事を知っていました。それで、人間の権威でも人を従う力があるのなら、神の権威を持つイエスなら、その言葉を頂くだけで、自分のしもべの病は癒されると信じて、イエスに「おことばを下さい」と懇願したのです。10節「イエスはこれを聞いて驚き、ついて来た人たちに言われた。『まことにあなたがたに言います。わたしはイスラエルのうちのだれにも、これほどの信仰を見たことがありません。』」イエスは、百人隊長が神の権威を認め、神のことばを求め神のことばに信頼する彼の信仰を褒めたのです。私たちはどうでしょうか。私たちにも神の権威のことばとして聖書のことばが与えられています。しかし、私たちは聖書のことばを神の権威あることばと信じて従っているでしょうか。信仰と現実が乖離し、聖書は信仰の書、現実は現実と使い分けていないでしょうか。聖書は神のことばであり、私たちの生活の基盤(基準)です。信仰と現実とを分けてしまうなら、聖書のことばが神のことばではなく、道徳や倫理の書になってしまいます。聖書は神の権威のあることばです。この百人隊長のように、神の権威を認めるとき、聖書のことばが私たちの力となり、希望のことばとなるのです。
2、カナン人の女性(マタイの福音書15章21節~28節)
マタイの福音書15章21節「イエスはそこを去ってツロとシドンの地方に退かれた。」とあります。マルコの福音書を見ると、イエス・キリストは律法学者パリサイたちとの論争に疲れ、彼らから距離を取るために、ガリラヤの北部ツロとシドンの地方に退かれました。イエスの宣教の初めはガリラヤから始められています。イエスのうわさはツロやシドンの地方にも広がっていました。22節「すると見よ。その地方のカナン人の女が出て来て、『主よ、ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が悪霊につかれて、ひどく苦しんでいます』と言って叫び続けた。」とあります。23節「しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。」とあります。これは、今までのイエスの姿から見て不思議なことです。イエスは人種、職業に偏見や差別をされないお方です。イエスはなぜ、彼女を無視されたのでしょうか。カギとなる言葉は、彼女がカナン人(異邦人)であり、イエスに対して「ダビデの子」叫んだことにあると考えられます。異邦人の彼女がどのような意味で、自分をダビデの子と叫んだのか、イエスは彼女の信仰を試すように、このように言われました。24節「イエスは答えられた。『わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません。』」しかし彼女はあきらめずにイエスに言いました。25節「しかし彼女は来て、イエスの前にひれ伏して言った。『主よ、私をお助け下さい。』」26節「すると、イエスは答えられた。『子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです。』」イエスは「子ども」をユダヤ人に例え、「子犬」を異邦人に例えて、神の恵みはユダヤ人に向けられており、異邦人には与えられていないことを、この例えを通して彼女に言い渡したのです。27節「しかし、彼女は言った。『主よ。そのとおりです。ただ、子犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。』」彼女は自分のことを神の前では「子犬」のように、主人から恵みを頂く資格がないことを認めつつも、神の恵みは「子犬」のような、小さな者にも憐れみを掛けてくださるのではとイエスの問いに答えたのです。この答えを聞いてイエスは言われました。28節「そのとき、イエスは彼女に答えられた。『女の方、あなたの信仰は立派です。あなたが願うとおりになるように。』彼女の娘は、すぐに癒された。」とあります。
二人の異邦人の信仰について見てきました。二人に共通することは、二人とも自分たちが異邦人で神の恵みを受ける資格が無いことを求めつつ、イエスに助けを求めたことです。私たちもこの二人と同じように、異邦人で神の救いを受ける資格のない者でした。しかし、祭司や律法学者たちがイエスを救い主と認めず、十字架に付けてイエスのいのちを奪うことによって、救いはユダヤ人から異邦人に向けられました。百人隊長やカナン人の女性は、謙遜に自分の罪を認め神に助けを求めました。私たちはどうでしょうか。私たちも罪があり、救われる資格の無い者でした。それでも、私たちが救われたのはイエス・キリストの十字架の愛ゆえです。多くの罪が赦された者は多く愛すると聖書にあります。私たちの罪は神の前にどれほど積まれていたのでしょうか。金額に表すとよくわかります。百円や千円の罪が赦されても、それほど感謝の気持ちはありません。百万円や一千万円が赦されたとしたらどうでしょうか。誰でも感謝するでしょう。罪と神の恵みは比例します。多くの罪が赦されたという自覚があれば、どれほど神に感謝するでしょうか。私たちは金額では表せないような罪を赦された者です。その恵みの大きさが分かれば、分かるほど神への感謝が生まれ、神の前に謙遜に生きることが出来るのです。