「百倍の実を結ぶ人」ルカの福音書8章4節~8節
イエス様は、神の国について群衆にお話しになる場合、例えを用いて話されました。例えを用いる理由は、聞いている人々が理解できるように、聞き手の身近な物を用いて理解しやすい話にするためです。今回の種蒔きの例え話も、種蒔きという聞き手(群衆)の身近な生活の習慣を用いてイエス様は神の国についてお話しになられました。しかし、結果的には、群衆はイエス様のお話の意味を理解することはできませんでした。弟子たちでさえその意味を理解することができなかったのです。10節に「あなたがたに、神の国の奥義を知ることが許されているが、ほかの者には、たとえで話します。彼らが見てはいても見えず、聞いていても悟らないためです。」と言われました。群衆はなぜ、理解できなかったのでしょうか。それは、彼らが「聞く耳を持たなかった」からです。聞くとは音を聞くという意味ではありません。内容を理解するということです。群衆は、救い主(イエス様)にローマ政府からユダヤの国を独立させる、革命家の姿を求めていました。しかし、イエス様はそのような目的でこの地上に生まれた者ではありませんでした。結局、群衆はイエス様が自分たちが望んだ者ではなかったがために、イエス様から離れ、最後には、パリサイ人と共に、イエス様を十字架につけて殺すことに協力したのです。そのような先入観を持ってイエス様の話を聞いても誰も理解できないのです。しかし、弟子たちにはその奥義を知ることが許されていました。なぜなら、イエス様が天に昇られた後、弟子たちがイエス様に代わって神の国について宣べ伝えるようになるからです。
種蒔きのたとえの意味は、イエス様が11節から15節で弟子たちに教えています。
(1)種は神様のことば。
(2)四種類の場所は、私たちが神様のことばを聞く心の状態。
を表しています。
12節の「道ばたに落ちる」とは、聞く耳のない人のことを表しています。13節の「岩の上に落ちる」とは、根がない人と表現されています。初めは喜んで耳を傾けても、試練や自分が望んだご利益がなければ、身を引いてしまう人です。14節の「いばらの中に落ちる」とは、みことばを聞くが、世の心づかいや、富や、快楽によってふさがれて実が熟するまでにならないといわれています。表面的には神様を信じているようでいて、実は、この世の物(富、財産)に心が奪われている人のことです。「良い地に落ちる」とは、みことばを聞くと「しっかりと守り」「良く耐える」なら、実を結ぶと教えられているのです。18節でイエス様は、「だから、聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っていると思っているものまでも取り上げられるからです。」と警告しています。
(1)「聞き方に注意しなさい」とは、先程のどのような状態でみことばを聞いているかということです。
(2)「持っていると思っているものも取り上げられる」とは、先程の、いばらの中の種のように実が熟さない状態を指したものです。
聖書は持っている、礼拝には参加している。しかし、みことばに心を開こうとせず、他人事のように聞いているなら、みことばがその人を変えることはできません。そして、見せ掛けの信仰は、終わりの日に取り上げられてしまうのです。
19節から21節で、イエス様のお母さんと兄弟たちがイエス様の所に、尋ねに来た時のことが書かれています。ここで、イエス様は、自分の家族とは「神のことばを聞いて行う人のことです。」と言われました。この時、イエス様の家族は、イエス様のことをまだ、救い主、神様から遣わされた人と理解していませんでした。イエス様が30歳で宣教の働きを始めた時から、イエス様は救い主メシヤとしての人生を歩み始められたのです。もう、大工の息子イエスではなく、救い主イエスとして生きはじめました。そのイエス様と関係を持つのはみことばだけです。神のことばを行う人は、神の家族であり、神のことばを行わない人は、たとえ、家族であってもイエス様とは何の関係ももつことはできないのです。
百倍の実を結ぶ人とはどのような人でしょうか。クリスチャンになる以前の私の目標はお金持ちになることでした。お金さえあれば、何でも好きなものが買え、豊かな人生を送ることができると考えていました。しかし、教会に来るようになり、私の考えは変わりました。お金で買えない大切なものがあり、また、お金が人を幸せにしないことも知りました。マタイの福音書を書いたマタイも私と同じです。彼も、取税人というお金をもうける仕事についていました。また、大きな家に一人で住んでいました。しかし、彼は、イエス様に声をかけられ、全ての富を捨ててイエス様の弟子になったのです。
神と出会うとは、どういうことでしょうか。神と出会うとは、神の存在を信じるということではありません。神と出会うとは、自分が神に愛されているものであることを知ること、神様が自分を守ってくださることを知るということです。アブラハムは初めから信仰深い人ではありませんでした。彼がエジプトに入るとき、奥さんのサラに妹と偽ってエジプトに入るように命令しています。それは、彼がエジプト人を恐れたからです。しかし、その計画は失敗し、サラはエジプトの王に取り上げられてしまいました。それを助けたのは神様でした。その時、アブラハムは神様の力を十分に信頼していなかったのです。しかし、アブラハムは、失敗を通して、神様との関係を深めていきました。また、アブラハムの孫、ヤコブは神様の祝福を求めるがあまり、兄と父を騙して神の祝福を奪い取ってしまいました。しかし、彼は、その後の苦しみを通して、神に近づき、神と格闘し、イスラエルという名を神様からいただきました。その後の彼の人生は180度変えられました。以前は、自分の知恵、力に頼る者でしたが、神と格闘した後、彼は神の恵みに頼る者に変えられたのです。百倍の実を結ぶ人とは、お金持ちになることや、有名な者になることではありません。たとえ、貧しくとも、自分が神に愛され、神に守られていることを知ることです。そして、神は、私たちのために、天に住まいさえ用意してくださっています。私たちは、この地上において、百倍の実を結び、天においても、百倍の実を結ぶのです。