神が人に与えられた特権・祈り

「神が人に与えられた特権・祈り」ヤコブの手紙4章2節3節

今年も多くの日本人が、初詣に出かけ神様にお祈りをささげました。これを見ると、日本人は本当に信仰心の篤い国民だと思います。しかし、問題は、自分の祈りが神様に届いたという確信がどれだけの人が持ったかということです。私もクリスチャンになる前は、毎年のように神社にお参りに行きました。そして、お賽銭を投げて、お祈りをしましたが、神様がどこにおられるのか、神様がどのようなお方なのかわからなかったので、お祈りしても本当に祈りが神様に届いたという実感はありませんでした。一年の初めだからとりあえず、神様にお祈りして、一年を始めたいそれだけでした。

しかし、教会に来て、私の祈りは変わりました。誰に、どのように祈ればよいか聖書を通して教えられたからです。なぜ、人間だけが神様に祈るのでしょうか。それは、神様が人間と対話するために与えてくださった特権、恵みだからです。旧約聖書の創世記1章で、神様は天地すべてのものを六日間で創造されました。そして、神様は人間をご自身に似せてお造りになられたと記されています。神が人間を神の形に創造されたという意味は、神様が人間と特別な信頼関係を持つために創られたという意味です。その目的は、この地上を神様の御心に沿って、管理させるためでした。ところが、人間は罪を犯し、神様との親しい特権を失ってしまいました。神様との特別な特権を失った人間は、自分の欲望を満たすために、この地上を悪で満たしてしまいました。ノアの洪水はそのための神様の裁きでした。神様はノアの家族だけを助けられ、世界はもう一度、ノアの家族から増え始めたのです。それでも、聖書を見るなら、人間の罪の問題は解決されず、天地創造の時に神に与えられた特権を人間は回復することができませんでした。

この罪の問題を解決するために生まれたのが、イエス・キリストです。イエス様は神の子であられたのに、人として生まれ、私たちの罪の身代わりとして十字架の上で死んでくださいました。しかし、イエス様は私たちと同じ肉体を持って生まれても、本質は神のままでした。それゆえ、イエス様は、死より三日目に復活され、私たちの救いを完成され、天の父のもとに昇って行かれたのです。イエス様は弟子たちに主の祈りを教えられました。その最初の言葉が、「天にいます私たちの父よ」という言葉です。イエス様は本当に神様の子ですから、神様を父と呼ぶことは当然のことです。しかし、ここで驚くことは、イエス様は弟子たちにも「天にいます私たちの父よ」と祈るように教えられたということです。ユダヤ教においては絶対にありえないことです。ユダヤ人にとって神様は偉大なお方で、人間は神様から遠く離れた存在です。罪ある人間が神を父ということは神を冒涜することで、死罪に当たる罪でした。それゆえ、ユダヤ人指導者はイエス様に死刑の判決を下したのです。

イエス様は、天に昇られる前に、弟子たちと約束をしました。ヨハネの福音書14章13節14節「またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かを求めるなら、わたしはそれをしましょう。」イエス様は「わたしの名によって祈りなさい。」と言われました。私たちは、祈りの最後に「イエス様の名によって祈ります。」といいます。それは、ここからきています。私たちが神の子になれたのは、イエス様の十字架の贖いゆえです。正式には私たち罪人が神の子となることは不可能なことです。(罪ある人間は罪のない神と交わることはできません。)しかし、イエス様は、自ら人となることによって神と人の仲保者となられたのです。それゆえ、私たちはイエス様を通して神の子なのです。それゆえ、私たちの祈りも、直接、父なる神に祈るのではなく、イエス様の名を通して祈ることによって、天の父に届けられるようになったのです。

イエス様は弟子たちに「わたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。」と約束してくださいました。しかしだからといって、私たちは何でもかんでも、イエス様の名によって祈れば、すべて与えられるかというとそうではありません。ヤコブの手紙4章3節「願ってもうけられないのは、自分の快楽のために使おうと、悪い動機で願うからです。」とあります。願う動機が大切です。相手を傷つけるために祈っても叶えられません。また、自分の快楽や欲望のために祈っても与えられません。イエス様の名を使って祈るとは、その名に恥じないように、祈らなければならないという意味です。旧約聖書のサムエル記で、サムエルの父エルカナはハンナを愛していましたが、ハンナが子を産めないため、もう一人の女性ペニンナをも妻に迎えました。そして、ペニンナによって子を得ました。すると、ペニンナは子を産めないハンナを馬鹿にし、彼女を苦しめたのです。ハンナは泣いて神様に祈りましたが、ただ、こどもを授けてくださいと祈ったわけではありません。サムエル記第一1章11節「万軍の主よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします。そして、その子の頭に、かみそりをあてません。」と祈りました。ハンナにとって、問題を解決するためには、子を産むことです。しかし、ハンナはそれだけではなく、その子を神様にささげますと祈ったのです。当時、神殿には祭司エリが神様に仕えていました。しかし、祭司エリは力もなく、人々は神様から離れていました。しかも、祭司エリは自分のこどもを諭し罪を悔い改めさせる力もありませんでした。神様は、このイスラエルの国をもう一度立て直すために霊的な指導者を必要としていたのです。ハンナの祈りは、そんな神様の思いと一致した祈りでした。神様はイスラエルの中でハンナのような祈りささげる女性を待っていたのです。

私たちはイエス様の名前を通してどのような祈りをしているでしょうか。時として、私たちは苦しい自分の状況を変えてほしくて、相手が変わるように祈る者ではないでしょうか。夫が変われば、妻が変われば、上司が変われば。しかし、神様が私たちに願っていることは、夫や妻や上司が変わることではなく、私たち自身が変わることを願っておられるのです。それゆえ、神様は、私たちが「私を変えてください。」と祈る時、自分が変えられ、周りとの関係も改善されていくのです。また、私たちは、問題や苦しみを取り除いてくださいと祈ります。しかし、神様は時として、苦しみや問題を通して、私たちの信仰を強めたり、自分の弱さを教えるために、試練や苦しみを与えられる時があります。苦しみや試練も神様のサインです。私たちが苦しみや試練を不平不満で受け取るのではなく、神様からのものと謙遜に受け取るなら、そこから道が開けるのです。祈りは、人間が神様に一方的に投げかけるものではありません。神様と人間が信頼しあうための大切なコミュニケーションです。それゆえ、祈りは神様が人間だけに与えてくださった特権なのです。今年、私たちは大胆に神様に近づき、神様に喜ばれる祈りを毎日ささげたいと思います。