神と人の間を仲裁する者

「神と人の間を仲裁する者」ヨブ記9章32節~35節

今日は、ヨブ記から三回目のメッセージをします。第一回目は、「ご利益信仰」についてお話しました。サタンは、ヨブの信仰を「ご利益信仰」だと決めつけていました。それゆえ、ヨブの財産、家族、健康さえ奪えば、ヨブだって神様をのろいますよと、神様がヨブのことを正しい人と認めたことに異議を唱えたのです。神はご自分の正しさを証明するために、ヨブをサタンに引き渡し、ヨブは財産、家族、健康をも失いました。しかし、ヨブは神様をのろうことがありませんでした。それによって、ヨブの信仰が「ご利益信仰」ではなく、神様のヨブへの評価が正しいことが証明されたのです。第二回目は、「因果応報の神」について。ヨブの友人たちが、ヨブを慰めに来ますが、ヨブの惨状を見て一週間も声をかけることができませんでした。そんな友人たちにヨブは苦しみのあまり、自分が生まれたことをのろいました。ところが、友人たちはヨブのことばを神をのろったとうけとり、彼らの「因果応報」の考えをヨブに押し付け、ヨブに悔い改めを求めたのです。しかし、ヨブには思い当たる罪はありません。そこで、ヨブは自分の潔白を友人たちに主張しますが、友人たちはヨブのことばに耳を傾けることなく、自分たちの考え「因果応報」の考えを押し付け、ヨブに自分の罪を認めさせようと議論となり、ヨブを苦しめることになったのです。

三回目のメッセージのキーポイントは「仲裁する者」ということばです。ヨブは、エリファズのことば、ビルダデのことばを聞いて、ヨブ記9章2節「まことに、そのとおりであることを私は知っている。」と答えました。ヨブは友人たちの考え「因果応報」という考え方を知らないわけでもないし、それを間違っていると反論しているわけでもありません。しかし、ヨブにとって、「因果応報」の考えが完全で全てであるとは受け入れられないと言っているのです。特に、自分にとっては「因果応報」の考えはあたらないと主張しているのです。そこで、ヨブはこのようにつぶやいています。2節「しかし、どうして人は自分の正しさを神に訴えることができようか。」ヨブが受けている苦しみの原因は、神様のヨブによる評価にサタンが挑戦したからです。そのことは、ヨブにも知らされず、ヨブとは関係ない所で起こっているできごとです。それゆえ、ヨブとしては、どうして急にこのような苦しみが自分に起こったのか、その原因を知りたいのです。ヨブは友人たちがヨブに主張するように自分の罪が原因で苦しみが与えられたとは考えていません。ヨブは自分の潔白を信じています。それゆえ、ヨブはこの苦しみは不当であるし、正しい神様の裁きではないと信じています。それゆえ、ヨブは、できれば神にこの間違いを訴えたいと思っています。しかし、自分は人間でしかないので、神に訴えることは出来ないし、また、訴えたとしても、神は自分のような人間には何も答えてくださらないだろうと思い巡らしているのです。ここでヨブは、「仲裁者」という考えに思いが進みます。32節「神は私のような人間ではないから、私は『さあ、さばきの座にいっしょに行こう。』と申し入れることは出来ない。」33節「私たちふたりの上に手を置く仲裁者が、私たちの間にはいない。」と。ヨブがここで求めている「仲裁者」とは、神と人との問題を公平にさばく第三者の存在です。神と人とを公平に裁く第三者の存在など存在するでしょうか。神と人との間を公平に裁くためには、神と同等の権威、または神以上の権威者と言うことになります。また、人の弱さや立場がわかる存在でなければなりません。そのような、神と人との間に立つことができる存在がおられるでしょうか。唯一、神であり人であられたお方がおられます。それは、イエス・キリストです。

イエス・キリストが人としてお生まれになられた目的は、人の罪の身代わりとして十字架の上で死ぬためでした。イエス様が神の体で地上に来られても、神は死ぬことができませんから、私たちの罪を背負って死ぬことは出来ませんでした。それゆえ、イエス様は私たちと同じ肉体を持って生まれてくださいました。それだけではありません。イエス様が人として生まれたのは、私たちと同じ存在となり、苦しみや弱さを体験するためでした。へブル人への手紙4章15節「私たちの大祭司(イエス・キリスト)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」とあります。イエス様は私たちの弱さを理解するために、あえて肉体を持って人としてお生まれになられたのです。また、新約聖書のローマ人への手紙8章34節で「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしてくださるのです。」とパウロはローマの教会の人々に教えています。

ヨブはこの苦しみの中でもがいています。ヨブの苦しみは肉体的な苦しみだけではありません。それよりももっと苦しいのは、今まで、神様はたくさんの祝福を与えてくださっていたのに、どうして急にこんな苦しみを与えられたのか。ヨブはその理由を知りたいのです。以前、孤独というお話の中で、孤独には「ロンリネス」と「ソリチュード」の二つあるというお話をしました。「ソリチュード」は一人になり、思索や黙想することによって、芸術を生み出したり、神様との出会いを導くものです。ヨブは今、苦しみもがく中で、神様のもう一つの姿にたどり着こうとしているのです。神が人として生まれるなど誰が考えることができるでしょうか。しかし、ヨブはこの苦しみの中で、神であり人として生まれられたイエス・キリストを求めようとしているのです。

苦しみにはいろんな意味があります。しかし、ヨブの苦しみは、ヨブの友人たちが信じているような「因果応報」という考えで理解できる苦しみではありませんでした。ヨブはこの苦しみを通して真の神の姿に到着しようとしています。また、神様はご自分のヨブに対する評価が正しいことを証明するためだけに、サタンの手にヨブをゆだねたわけではありません。神様はこのヨブの苦しみ「ソリチュード」を通して、ご自分の姿を現わそうとされたのです。苦しみを通してでなければ「理解できないこと」があります。また、苦しみを通してでしか「得ることができない」ことがあります。神様は、ヨブの友人たちが信じているような「因果応報」の神ではありません。ご自身のひとり子を犠牲にされる方、また、私たちを罪より解放されるために、ご自身が十字架で苦しみを受け、いのちを犠牲にしてくださったかたです。そんな、神様が私たち一人一人と共に歩んでくださいます。ヨブの最後は祝福で終わっています。私たちも、苦しみの先に神の祝福があることを信じましょう。