マルコの福音書7章24節~37節
ユダヤ人は、自分たちはアブラハムの子孫で、神に選ばれた特別な民、神に愛されている特別な民族だと信じています。また、イエスの時代、外国人について、神に見放された汚れた民だと信じていていました。それを「選民思想(意識)」と呼びます。先週学びました、汚れについて、ユダヤ人は「市場から戻ったときは、からだをきよめてからでないと食べることをしなかった。」とありました。それは、彼らが知らないうちに外国人と接触して汚れを受けたかもしれないという思いがあったからです。それゆえ、外から帰って来た時は、体を洗うことを習慣としていたのです。それほどユダヤ人は異邦人(外国人)を汚れた民と忌み嫌っていたのです。
1、イエスと異邦人の女性(24節~30節)
24節「イエスは立ち上がり、そこからツロの地方へ行かれた。家に入って、だれにも知られたくないと思っておられたが、隠れていることはできなかった。」
この時すでにイエスのうわさは広がり、多くの人々がイエスを捜して病をいやしてもらおうと集まって来ました。また、パリサイ人律法学者との対立も強くなり、イエスはそのような状況を避けるために、ユダヤ人の少ないガリラヤ湖の北方ツロに身を隠されたのです。
しかし、このツロにもイエスのうわさは広がっており、この地方にイエスが来られたと知り、イエスの助けを求めて一人の女性がイエスを尋ねて来ました。
25節「ある女が、すでにイエスのことを聞き、やって来てその足もとにひれ伏した。彼女の幼い娘は、汚れた霊につかれていた。」
彼女はシリア・フェニキアの生まれで、自分の娘から悪霊を追い出してくださるようにイエスに願いました。するとイエスは彼女に言われました。
27節「まず子どもたちを満腹にさせなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、子犬に投げてやるのは良くないことです。」
ここでイエスは「子どもたち」をユダヤ民族。「子犬」を異邦人(外国人)に当てはめて返答をしました。しかし、イエスがこのように例えられたのは、先ほどの選民思想にゆえではありません。イエスは彼女が異邦人であるがゆえに、彼女の信仰を試されたのです。
それに対して彼女はこのように答えました。
28節「主よ。食卓の下の子犬でも、子どもたちのパン屑はいただきます。」
彼女は自分が子犬であることを認め、パンくず(おこぼれ、あわれみ)でもいいから与えてくださいと自分を低くしイエスに助けを求めました。
イエスは彼女に言われました。
29節「そこまで言うのなら、家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました。」
イエスは彼女のへりくだった姿を見て、彼女の願いをかなえられました。彼女はイエスの言葉を信じて家に帰宅しました。すると、
30節「彼女が家に帰ると、その子は床の上に伏していたが、悪霊はすでに出ていった。」
とあります。彼女がイエスの前に自分を低くした姿を見て、イエスは彼女をあわれみ、彼女の娘から悪霊を追い出されたのです。
この話を読んで、マタイの福音書20章にある「ぶどう園で働く労務者」のイエスのたとえ話を思い出しました。ここで家の主人は朝早く出かけて、労務者たちを一日一デナリの約束で雇いました。さらに、主人は九時ごろ、十二時ごろ、五時ごろにも出かけていき労務者たちを雇いました。ただ、九時に雇われた労務者たちとは、賃金は決めないで相当の賃金を払うと約束しています。夕方になり主人は監督に「最後に来た者たちから賃金を払いなさい。」と命じました。五時から雇われた者たちが賃金をもらいに監督のところへ行くと、彼らは1時間しか働かなかったにもかかわらず、一日の労働賃金一デナリが支払われました。彼らはどんなに喜んだことでしょう。それを見ていた、朝から雇われた者は、契約以上の賃金がもらえると期待しましたが、彼らに払われた賃金も一デナリでした。彼らは主人に不満をもらしました。なぜなら、彼らは朝早くから夕方まで働いたからです。主人は彼らに言いました。「私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。」朝早くから夕方まで働いた人に支払われた賃金は「報酬」です。しかし、最後の5時から雇われた人に支払われた賃金は「主人の恵み(あわれみ)」だったのです。このたとえ話はこの世の話ではなく、天の御国の話です。天の御国は、私たちが努力して働いて得るものではなく、主人(神)の恵みにより与えられることを例えたお話です。ここに登場した朝早くに雇われた労務者をパリサイ人律法学者、五時に雇われた者が貧しい人々、異邦人を表しています。パリサイ人律法学者たちは神の戒めを一生懸命守り救われようと努力しましたが、天の御国を得ることができませんでした。貧しい者たち、異邦人はイエスのあわれみにすがるしか希望がありませんでした。その彼らこそ、神よりあわれみを受け天の御国が与えられたのです。
2、耳が聞こえず口のきけない人のいやし(31節~37節)
イエスがガリラヤ湖に戻られると、
32節「人々は、耳が聞こえず口のきけない人を連れて来て、彼の上に手を置いてくださいと懇願した。」
33節~35節「そこで、イエスはその人だけを群衆の中から連れ出し、ご自分の指を彼の両耳に入れ、それから唾を付けてその舌にさわられた。そして天を見上げ、深く息をして、その人に『エパタ』すなわち『開け』と言われた。すると、すぐに彼の耳が開き、舌のもつれが解け、はっきりと話せるようになった。」
イエスはここで、彼を「群衆から連れ出し」彼に「このことをだれにも言ってはならない」と命じています。しかし、彼らは口止めされればされるほど、かえってますます言い広めたとあります。イエスはなぜ彼らを口止めされたのでしょうか。イエスの働きの第一は福音を広めることにありました。その次に、当時、病に苦しむ人々、悪霊に苦しめられる人が多くいたので、彼らを癒し悪霊を追い出されたのです。しかし、あまりに病に苦しむ人々、悪霊に苦しむ人々がイエスのところに集められ、イエスも弟子たちもその対応に追われる日々となってしまいました。先ほどイエスがツロに行かれたのもそのような群衆から身を離すためでした。それでも、イエスのうわさが広がり、多くの人々がイエスの助けを求めて集まって来たのです。
パリサイ人律法学者たちは、神様の戒めである律法を守り天の御国を自分のものとしようとしましたが、彼らはそれを得ることはできませんでした。私たちが天の御国を得るためには自分の罪を認めなければなりません。それは、神の前に自分を低くすることであり、プライドを捨てて謙遜になることです。日本人は罪が分かっても、自分の罪の大きさに気付いていません。自分が「癌」であることが分かれば、どんなに医者嫌いの人でもお金を払って手術受けるでしょう。私たちは神の前にどれほど大きな罪を犯しているでしょうか。天国は、「報酬」ではなく、「神の恵み(あわれみ)」によって与えられるものです。主を信じる者はみな救われるとあります。フェニキアの女性はイエスのことばを信じて家に帰りました。それが彼女の信仰の告白です。すべての人は罪を犯し、神の前に罪人です。それを認めて神の前に自分を低くする者だけが神のあわれみのゆえに、永遠の命を自分のものとすることができるのです。