神の前に自分の弱さを認める信仰

コリント人への手紙第二12章1節~10節

今年も終わりが近づきました。皆さんにとって今年はどのような一年だったでしょう。私にとって、今年の5月の終わりに日本アライアンンス教団の理事長に任命されたことは大きな出来事でした。正直に言って私に務まるだろうかと不安でした。確かに責任は重くなり、理事長としてなさなければならない仕事が多くなりました。そのような生活の中で、一番の変化は、祈りの時間が長くなったことです。今まで、自分の家族と小手指教会の皆さんのことを祈ってきましたが、それに加え、日本アライアンス教団の各教会の事や牧師先生の事など祈る課題が増えて祈りの時間が長くなったのです。この七カ月を振り返って、多くの人々から助けられ、また、神の助けを感じました。

今日は、パウロのことばを通して、彼の力の源は何なのか、パウロの信仰について学びます。コリント人への手紙第二の12章は、パウロが自分自身について語っている箇所です。

2節~5節「私はキリストにある一人の人を知っています。この人は十四年前に、第三の天にまで引き上げられました。肉体のままであったのか、私は知りません。肉体を離れてであったのか、それも知りません。神がご存じです。私はこのような人を知っています。肉体のままであったのか、肉体を離れてであったのか、私は知りません。神がご存じです。彼はパラダイスに引き上げられて、言い表すこともできない、人間が語ることを許されていないことばを聞きました。このような人のことを私は誇ります。しかし、私自身については、弱さ以外は誇りません。」パウロは第三の天に引き上げられるという特別な霊的体験をしました。しかし、彼は自分が体験した霊的な体験よりも自分の弱さを誇ると宣言しました。7節~10節「その啓示のすばらしさのため高慢にならないように、私は肉体に一つのとげをあたえられました。それは私が高慢にならないように、私を打つためのサタンの使いです。この使いについて、私から去らせてくださるようにと、私は三度、主に願いました。しかし主は、『わたしの恵はあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現われるからである』と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」パウロは第三の天に引き上げられるという特別な霊的体験を致しました。しかし、彼はその特別な霊的体験を誇らないと宣言しています。普通なら、そのような特別な体験をした人は自分を誇る者です。また、パウロはそのような体験をした自分を誇らないために、神は自分に一つのとげを与えられたと証言しています。そのとげが何を指しているのかわかりませんが、パウロはこのとげを去らせてくださいと三度も願いましたが、その願いはかなえられませんでした。その代わりに、パウロに与えられた神のことばが「わたしの恵はあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである。」という神のことばでした。何でも自分の願いが叶えられたら、人間は自分を神のように思い高慢になってしまいます。神はパウロがそうならないためにとげを与えました。パウロは、神の力は人間が自分の弱さを認め完全に神にゆだねた時に、神の力は完全に現れるという真理を見出したのです。確かに自分の力や知恵に頼っている間は神の力は現わされません。自分の弱さを認め神に信頼して一歩前に踏み出した時に、神は目の前の道を開いてくださいます。しかし、それを知識としては理解していても実際のこととなると、私たちは目に見えない神よりも、目に見える財産や自分の知恵に頼る者ではないでしょうか。

旧約聖書に登場するアブラハムの孫ヤコブは自分の知恵に頼る者でした。彼は、兄の弱みに付け込み、長子の権利を兄から奪い取りました。また、目が不自由になった父をだまし、兄に成りすまして兄の祝福の祈りを奪い取りました。それが兄に知れ、ヤコブは兄の怒りを怖れて、兄から逃れ遠く離れた叔父ラバンの家に身を寄せたのです。二十年間ラバンの下で苦労したヤコブに神は兄のもとに帰るように告げました。ヤコブは兄を怖れつつも故郷に帰りました。故郷に近づいたヤコブは兄の怒りを怖れ、兄への贈り物を先に遣わしました。それでも、ヤコブの不安はなくなりまません。ヤコブはヤボクの川に近づいた時、家族を先に送り一人残りました。そこで彼は神と格闘しました。(創世記32章24節~32節)ヤコブは自分の知恵に頼る者でした。しかし、それでも不安はなくなりませんでした。そこで、ヤコブは神にしがみついて助けを求めたのです。最後、神は彼のももの関節を外されました。ヤコブは体の弱さを受け入れ、神に信頼する者に変えられたのです。私たちも自分の力や知恵に頼っている間は、神は働かれません。私たちが自分の弱さを受け入れ神に信頼する時、神は道を開かれるのです。今年の年間聖句はヨハネの福音書15章5節の御ことばでした。イエスはわたしにとどまるとき、その人は多くの実を結ぶと言われました。また、わたしを離れては何もすることができないと言われました。今年一年私たちの歩みはどうだったでしょうか。まだ、自分の力、知恵に頼る者でしょうか。

前にも紹介しましたが、ニューヨーク・リハビリテーション研究所の壁に書かれました「病者の祈り」を読んで終わります。

「大事を成そうとして力を与えてほしいと神に求めたのに、慎み深く従順であるようにと   弱さを授かった。より偉大なことができるように健康を求めたのに、よりよきことができるようにと病弱を与えられた。幸せになろうとして富を求めたのに、賢明であるようにと貧困をさずかった。世の人々の賞賛を得ようとして権力を求めたのに、神の前にひざまずくようにと弱さを授かった。人生を享楽しようとあらゆるものをもとめたのに、あらゆるものを喜べるようにと生命を授かった。求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞き届けられた。神の意にそわぬ者であるにもかかわらず、心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた。私はあらゆる人々の中で最も豊かに祝福されたのだ。」

祈りとは、叶えられることがゴールではありません。神の御心を受け入れ、御心に従って生きることが、祈りのゴールなのです。