「神の命令から逃げ出した預言者ヨナ」ヨナ書1章1節~3節
預言者ヨナと聞いて、どんなことをした預言者かわからなくても、大きなお魚に飲み込まれた預言者というと、思い出す人も多くいると思います。日曜学校で、こどもたちに良く話される聖書のお話です。ただ、お魚に飲み込まれる場面を強調するするあまり、預言者ヨナが何をしたのか記憶に残らない人が多くいるのではないかと思います。このお話はこども向けのお話ではなく、私たちクリスチャンに対して、大切な神様からのメッセージが含まれたお話なのです。
ヨナは紀元前780年代に活躍した預言者です。北イスラエルがアッシリアに滅ぼされたのが紀元前720年ですから、その60年前に活躍した預言者と言うことになります。ヨナに与えられた神様からの使命は2節「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。」というものでした。ニネベの町とは、後に北イスラエル王国を滅ぼすアッシリアの首都です。この時代、北イスラエル王国は、アッシリアの国に対して恐怖を感じていました。神様はそのニネベの町に行って預言せよとヨナに命令されたのです。ヨナはこれを聞くと、ヨッパへ行き、タルシシュ行きの船に乗ったとあります。タルシシュがどこにあたるのかは不明ですが、ニネベの町とは反対方向に行く船に乗り込んだのです。しかし、神様はヨナを逃がしませんでした。大風が船に吹き付け暴風雨が起こり、ヨナの乗った船が難破しそうになりました。ヨナはこの時、この暴風が自分のために吹き荒れ、船を難破させようと神様が働いておられることを知りました。そして、船を助けるために自分を海に投げ込むように船長に話したのです。船員がヨナを海に投げ込むと海が静かになり、大きな魚が現れヨナを飲み込んだのです。
ヨナが神様の命令に逆らって逃げ出した理由は、彼が大国ニネベの人々を怖れたからではありません。ニネベはアッシリアの首都で、北イスラエル王国にとって敵対する国です。ヨナにとって一番滅んでほしい国でした。もし、自分がニネベ町に行って神様のことばを伝え、彼らが悪から離れ、悔い改めたなら、神様からの裁きが降ることなく助けられることになります。ヨナは一番それを怖れたのです。もし、自分が神様の命令に逆らい、逃げ出すことによって、ニネベの町に神様の裁きが降り滅ぼされるなら、北イスラエル王国にとってこんな良いことはありません。そこで、ヨナは北イスラエル王国を救うために、あえて神様の命令に逆らってタルシシュへ逃れようとしたのです。
神様はそんなヨナを離しませんでした。神様はどうしてもヨナにニネベの町に行って、神様のことばを伝えさせたかったのです。2章において、ヨナは三日三晩お魚のお腹の中にいたとあります。ヨナは三日間、神様に祈り悔い改めの時を持ちました。三日が過ぎると、神様はお魚に命じて、ニネベの町の陸地にヨナを吐き出させたのです。ニネベの町は行き巡るのに三日かかるほどの非常に大きな町であったとあります。ヨナに与えられた神様のことばは、「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる。」という神様からの警告のことばでした。ヨナのメッセージを聞いた人々は、王様から低い身分の者まで荒布を着て断食したとあります。3章の10節「神は、彼らが悪の道から立ち返るために努力していることをご覧になった。それで、神は彼らに下すと言っておられたわざわいを思い直し、そうされなかった。」とあります。ここからがヨナ書の中心主題となります。ヨナはニネベの町に神様の裁きが降らなくて喜んだでしょうか。4章の1節を読むと「ところが、このことはヨナを非常に不愉快にさせた。」とあります。ヨナは、ニネベの町の人々が助かったことに怒り、神様に私のいのちを取ってください、私は生きているより死んだほうがましです。とまで言っています。怒るヨナを神様はどうされたでしょうか。ヨナはニネベの町の様子を探るように、東の方に仮小屋を作りました。神様はヨナのために一本のとうごま(ひょうたん)を備え、ヨナの頭を覆う影としました。ヨナは神様の備えられた、とうごまを非常に喜びました。しかし、翌日、神様は一匹の虫を備え、その虫がとうごまを噛んだのでと、とうごまが枯れてしまいました。ヨナは照り付ける日差しの中で、自分の死を願ったとあります。ヨナはまた、神様に「生きているより死んだほうがましだ。」と叫びました。神様はヨナに言われました。9節「このとうごまのために、あなたは当然のことのように怒るのか。」ヨナは神様に言いました。「私が死ぬほど怒るのは当然のことです。」また、神様はヨナに言われました。10節11節「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万人以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。」ここで、このお話は終わっています。大切なことは、この神様のことばを聞いてヨナはどうしたかを考えなさいと言うことです。ヨナは愛国心の強い預言者でした。それゆえ、北イスラエルの国に害をもたらそうとする国を、赦すことができませんでした。ニネベの町は滅んで当然と考えていました。神様はそんなヨナの考えを変えるために、彼を選び、たとえ自分から逃げても彼を離さなかっつたのです。当時の、イスラエルの民は皆、ヨナのような考えを持っていました。また、その考えはイエス様の時代の律法学者パリサイ人たちに強くあらわされた考えでした。異邦人ということばは、ユダヤ人以外の民族のことを指し、律法学者パリサイ人たちは、彼らを罪人呼ばわりして、親しくなろうとはしませんでした。イエス様が生まれる780年も前に、神様はイスラエルの民だけではなく、全ての人を愛し、救われることを願っていることを預言者ヨナを通して、イスラエルの民に教えようとされたのです。しかし、イスラエルの民はそのことを理解せず、自分の国だけを愛する、愛国心を強く持つようになったのです。
イスラエルの民だけではありません。イエス様はマタイの福音書22章39節で、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」と言われました。「あなたの隣人」とは、自分を愛してくれる人、自分を理解してくれる人、自分に親切にしてくれる人だけではありません。自分を憎む人、自分を理解してくれない人、自分に悪意を持つ人も含まれます。イエス様は十字架に付けられる時、自分を釘付けする人のために「父よ。彼らをお赦し下さい。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」と彼らのために赦しの祈りをされました。また、マタイの福音書5章44節で「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」と言われました。誰が、自分の力で、自分の敵を愛し、迫害する者のために祈ることができるでしょうか。人間の力では不可能なことです。しかし、それゆえ、神様の愛が私たちに必要なことを教えておられるのです。イエス様は私たちを愛し、私たちを救うために十字架で死んでくださいました。それも私たちが正しいから、また、助けるに値する人格者だからではありません。罪人を救うために自ら貧しい姿、みじめな姿になられたのです。そのキリストの愛を知るとき、私たちのかたくなな心は砕かれるのです。
ヨナ書を読むと如何に神様がヨナを愛しておられるかがわかります。ヨナは神様の命令を無視して、自分の考えで、神様の前から逃げ出しました。それでも、神様はヨナから離れず、ヨナを捕らえました。本来なら殺されてもしかたがない行為です。また、ヨナは正直に自分の気持ちを神様にぶつけています。また、そういうヨナの気持ちを受け止めてくださる神様の愛をここに見ます。私たちの祈りは時として形式的で、本性を偽った祈りをすることがあります。しかし、神様は私たちの心の中すべてをご存知です。ヨナはそのような神様の愛を知っているからこそ、まっすぐに自分の気持ちを訴えているのです。私たちもヨナをみならい、本心で神様にぶつかる祈りをしたいと思います。