神の国と天の御国

「神の国と天の御国」マタイの福音書6章24節~34節

日本の社会人の男性にキリスト教が受け入れられない理由の一つに、神様に頼るという考え方があります。私もそうですが、日本では男の子に人に頼ってはいけないと教えます。それは社会人として自立を教えるためですが、そのため、神様に頼るということに違和感を感じてしまうのです。ただで救われる。何も努力しないで天国に行くという教えよりも、座禅や修行して努力した結果として、天国を自分のものとする方が達成感が伴い、男性には受け取りやすい考え方ではないかと思います。しかし、その背後には人間の傲慢な思いが隠されているのです。それは、人間は努力すれば神のようになり、天国に入れるという人間の思い上がりです。教会に来る以前は、私もそのように考えていました。しかし、聖書を読み学ぶうちに、天国は神の支配しておられるところで、一つでも罪ある者は入ることのできない所であることを学びました。罪が一つも無い人ですから、人間がどんなに努力しても入ることができないところです。それゆえ、神の子であるイエス様が人として生まれ、人の罪の身代わりとなり十字架の上で死んでくださったのです。人間が努力して天国に入れるなら、イエス様が人として生まれることも、十字架で死ぬ必要もありませんでした。私たちの救いは、イエス様の身代わりの死以外に解決の方法がありませんでした。イエス様の死、それは、神様の究極の決断だったのです。

ルカの福音書18章17節に「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこ(神の国)に、入ることはできません。」とあります。ここで言われている「子どものように」とは、罪が無い者という意味ではありません。「子どものように神の国を受け入れる」とは、子どもが親を信頼するようにという意味です。子どもは親を信頼しているので、明日の食事のことを心配しません。また、どうやって生活のやりくりをしたらいいかなど心配したりしません。それは、必要なものは親がすべて与えてくれるという信頼があるから安心して生活ができるのです。初めにお読みしました、マタイの福音書6章24節からのイエス様の言葉は有名なことばです。ここで、イエス様が人々に教えようとされたのは、鳥や野の草さえ神様が養い育ててるのだから、人間についても当然、神様は必要な物を与え、養ってくれるのだから、何を食べようか、何を着ようかと心配しないでもいいですよという教えです。27節にあるように私たちは自分のいのちを少しでも伸ばすことができない神様から見れば小さなものです。それゆえ、神様は私たちの必要をすべて知っておられ全てを与えて下さるお方なのです。それゆえ、34節「だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」と言われたのです。ここでイエス様は私たちに一つだけ命令を与えておられます。33節「だから神の国とその義とを第一にもとめなさい。」ここで言われている、「神の国」とは天国を指した言葉ではありません。「神の国」とは「神の支配」を表すことばです。それゆえ、「神の支配を第一に求めることによって」食べるもの着るものそれ以外にも必要なものは、すべて備えられますと教えておられるのです。

また、イエス様は「天の御国」についていくつかのたとえ話を群衆に教えています。ここでイエス様がお話しになられた「天の御国」のたとえ話は、文字通りの天国についての例え話です。マタイの福音書20章に、1節「天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです。」とあります。このお話しの不思議なところは、朝早くから働いた者にも、一時間しか働かなかった者にも同じ賃金が支払われたことです。主人は朝早く雇った労務者とは一日一デナリの契約を結びますが、九時頃と十二時頃と五時に雇われた者とは賃金の契約を結びませんでした。ただ相当のものをあげるからとの口約束です。そして、仕事が終わり、賃金を支払う時間になりました。ところが、五時頃雇われた者に支払われた金額は一デナリでした。五時頃雇われた者は一時間しか働かなかったのに、一日の賃金一デナリが支払われたのです。彼らはどんなに喜んだことでしょう。それを見た朝から働いた者たちは自分は朝早くから働いたのだから一デナリ以上の賃金がもらえると期待しました。ところが彼らに支払われたのも一デナリだったのです。朝早くから働いた者たちは主人に文句を言いました。ここで大切な事は主人の言葉です。14節15節「自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも。私が気前がいいので、あなたの目にはねたましくおもわれるのですか。」ここで私たちがわかることは、天国は神様のもので、人間が努力して勝ち取るものではないことです。また、神様は努力した人にも努力できなかった人にも同じように天の御国を与えたいと願っていることです。それは、主人の哀れみであり、恵みです、そしてそれは神様の愛なのです。先程、男性は努力もしないでただでいただくことに抵抗があるというお話しをしました。また、男性は哀れみを受けるという事にも抵抗があるのです。

また、ルカの福音書15章の三つの例え話は、別の角度から天の御国についてイエス様が話された箇所です。(1)ルカの福音書15章4節~7節「九十九匹の羊を置いて、一匹の失われた羊を探し歩く羊飼いの姿。」(2)ルカの福音書15章8節~10節「十枚の銀貨を持っていた女性が一枚の銀貨をなくし、部屋を念入りに掃除して一枚の銀貨を捜す女性の姿。」(3)ルカの福音書15章11節~32節「家を出ていった息子を待ちわびる父親の姿。」この例え話の(1)(2)は、神様が積極的に失われた者を捜す姿。(3)は失われた者がそのままの姿(罪人の姿)で戻ってきても、大喜びで罪人たちを歓迎する神様の姿が描かれているのです。

神の国はこの地上で神様を信じ、神の支配のもと、すべたが備えられていることを知ることによって明日の心配、10年先、20年先のことまで心配する必要が無いことを教えています。また、天の御国(天国)は神様のもので、神様が恵みとして全ての人に与えたいと願っておられることを教えています。また、それだけではなく、神様は天国に入る資格を失った者を一生懸命探し出し、天の御国に入れたいと願っておられる神様です。罪の重荷のわからない人間は、自分で努力して天国に入ろうとします。また、ある者は、自分は正しい人間だからいつでも天国に入れると考えています。そんな愚かな人間のために神様はご自分のひとり子イエス様によって人間の罪の問題を解決してくださったのです。神様は天国を備えてくださっただけではなく、一人でも多くの者が天の御国で永遠に幸せに暮らすことを願っておられるのです。