神の国と永遠のいのち

「神の国と永遠のいのち」ルカの福音書18章18節~30節(召天者記念礼拝)

ひとりの役人がイエス様の所へ来て質問しました。18節「尊い先生。私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」青年がイエス様に尋ねた「永遠のいのち」とは、この世で永遠に暮らすことができるいのちのことではありません。別のことばに言い換えれば、「何をすれば天国に入ることができますか。」という質問です。この問題は、ユダヤ教の教師(ラビ)の間でも議論され、様々な答えが言われていました。そこで、この役人(青年)は、イエス様の考えを聞くために、イエス様のところに来たのです。日本では亡くなった方は天国または極楽に行くと、漠然と信じています。しかし、ユダヤ教では、罪ある人は天の御国にはいることができないと、はっきりと教えられていました。そこで、ユダヤ教の教師たちは、どうしたら神様の戒めを守ることができるのか、また、どの戒めを守れば天の御国に入ることができるのか真剣に議論されきたのです。

イエス様の答えは、20節「戒めはあなたもよく知っているはずです。『姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。父と母を敬え。』」でした。この答えは、旧約聖書で神様がモーセを通してイスラエルの民に与えた十戒の後半の戒めにあたります。イエス様の答えは、当時の律法学者の多くの者たちと同じ意見でした。ただ、この戒めをどのように守るかが大きな問題だったのです。この役人はイエス様の答えを聞いて、21節「そのようなことはみな、小さい時から守っております。」と答えました。確かに、正しく生きようとする者にとって、イエス様の答えは、一見、簡単なように見えます。しかし、イエス様はマタイの福音書5章28節で、「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」と言われました。このように、心の問題まで深く入り込んで考えるなら、だれが、神様の戒めを守ることができるでしょう。この役人は、そのことに気づかず、さも、自分が完璧なように、「そのようなことは、小さい時から守っております。」と答えたので、イエス様は彼に言われました。22節「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」23節「すると彼は、これを聞いて、非常に悲しんだ。たいへんな金持ちだったからである。」とあります。イエス様が言われたのは、自分の財産を貧しい人々に施して、天に宝を積むことによって天国に入れると言ったわけではありません。彼の場合、天国に入るために何が障害となっていたのでしょうか。それは、彼の財産です。彼は多くの財産を持っていたゆえに、神様よりも財産によりたのむ生活が当たり前になっていたのです。その、財産をなくし、ただ、神様だけに頼る生活をしなさいと言われたのです。財産はこの世では、役にたちますが、天国にまで持って行くことはできません。彼は、この財産を手放すことができずに、イエス様の前から去っていったのです。イエス様は群衆に言われました。24節25節「裕福な者が神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」金持ちは、多くの財産が天国に入るのを阻んでいるので、金持ちが天国に入るのはむずかしいと言われました。それを聞いて群衆は驚きました。26節「それでは、だれが救われることができましょう。」イエス様は言われました。27節「人にはできないことが、神にはできるのです。」イエス様が、金持ちが天国に入るのはむずかしいと言われると、群衆は驚きました。なぜなら、群衆は、お金持ちほど、神殿にたくさんの献金をするので、一番に天国に入ることができると考えていたからです。イエス様は、彼らの思いを打ち消して言いました。お金持ちは財産のゆえに、天国に入ることがむずかしい。では、だれが神の国である天国に入ることができるのだろうと考えた時、イエス様は「人にはできないことが、神にはできるのです。」と天国に入るのは人間の努力や、生活の正しさではなく、それは、神様を信じる者だけが、天の御国に入ることができると言われたのです。

今日は、召天者記念礼拝です。召天者記念礼拝とは、すでに天に召された方々を思い、残された家族と共に、イエス様を礼拝する時です。家族にはそれぞれの思い出があるでしょう。今日、私たちは、すでに彼らが天にいることを確信します。それは、彼らが正しい人で罪がない善人だからではありません。一人一人が、人生のどこかで、神様と出会いイエス・キリストを救い主と信じたからです。キリスト教の救い、天国に入ることは、罪が無い、善人になることではありません。罪を持ちながらも、イエス様の十字架の死を自分の罪の身代わりの死と信じる時、神様の御前で罪赦された者として立ち、私たちに与えられた天の御国に入ることができるのです。救いの恵みはだれでも受け取ることができます。しかし、一つだけ、条件があります。それは、この地上で生きている時しかチャンスがないという事です。生きている間にこの決断をしなければなりません。私たちは、自分の生き方を省みて、自分の力で、完全な罪のない者として神様の前に立つことができるでしょうか。召天者記念礼拝は、神様によって生かされているものが、いのちについて考える一番良い時です。神様は、今、私たち一人一人に何を語りかけているでしょうか。