ヨシュア記3章1節~17節
イスラエルの民(男性だけで60万人)は、エジプトを脱出し、荒野をさまよい歩き、40年の後、再びカナンの地にやって来ました。その時、イスラエルの指導者はモーセからヨシュアに代わりました。この時、ヨシュアに与えられたプレッシャーとストレスは私たちの想像を超えて大きいものであったと思われます。それゆえ、神の召命を恐れるヨシュアに、神は、ヨシュア記1章で、何度も「強くあれ、雄々しくあれ」と励ましています。前任者が偉大であればあるほど、後を引く次ぐ者は、自分と前任者を比較し、その責任の重さに、大きなプレシャーとストレスを感じます。プレシャーとは「外部から受ける圧力」のことで、ストレスとは、「外部の圧力を受けて、内部(心)に生じる圧力」をストレスと言うそうです。ヨシュアの場合、モーセの後継者という神からのプレッシャー(圧力)を受け、その任務の大きさに精神的に大きなストレス(圧力)を感じたものと思われます。
現代は、ストレス社会と言われています。私たちは日々、何らかのストレスを感じて生きています。以前、カウンセリングを学んだ時、どのようなことにストレスを感じるかと言うことを学びました。一番ストレスを感じる出来事は「配偶者の死」でした。それを100とし、それ以外のものを数値に表すと高い順に「離婚が73ポイント」「配偶者との別居65ポイント」「家族の死63ポイント」「怪我や病気53ポイント」「結婚50ポイント」「失業47ポイント」その他に、退職、妊娠、転職なども高いストレスを感じる要因となっています。
ヨシュアはヨルダン川を前に、どのようにしてこの川を渡れば良いかという大きなプレッシャーを受け、大きなストレスにさらされていました。ヨルダン川は季節によってその川幅は変わります。雨の多い雨季には川幅が広がり、簡単に渡れる状況ではありません。しかも、男性だけで60万人、それに加え、女性や子供も含めると100万人以上の大群衆です。時間をかけてぐずぐずとしていれば、敵が現れて、反撃されてしまいます。幸いに、カナン人たちは、まさかイスラエルの民がこのヨルダン川を簡単には渡ることができないだろうと、あまり警戒をしていませんでした。それゆえ、ヨシュアに求められるのは、いっぺんに100万人と言う人々を渡らせるという奇蹟的な作戦しかありません。舟や橋を作る時間はありません。ここで神はヨシュアに一つの命令を与えました。レビ人の祭司に主の契約の箱を担がせ、彼らを先頭に二千キュビト(約900メートル)の距離置き、祭司が川に足を踏み入れたら、ヨルダン川の水がせき止められ、あなた方は渇いた地を渡れと言うものでした。これは、40年前のモーセとイスラエルの民が紅海を渡った時と似た状況です。モーセはこの奇跡を通して、自分が神によってイスラエルの指導者に任命されたことを証明しました。ヨシュアにとってもこのヨルダン川を渡ることは、自分が神によってイスラエルの指導者と任命されたことの証明になります。もし、失敗すれば、ヨシュアは神によって立てられた指導者ではないと判断されます。この時のヨシュアはどれ程大きなプレッシャーを感じていたでしょうか。また、大きなストレスを感じていたものと思われます。ここで、神がヨシュアに契約の箱を祭司たちに担がせ、先に行かせたことは何を意味しているのでしょうか。私たちは神の姿をこの目で見ることはできません。この時代の契約の箱は神の臨在を現す特別な意味がありました。それゆえ、神はヨシュアに、自分の知恵や力に頼るのではなく、目に見える形で、神に信頼し、すべてを神に委ねることを教えようとされたのではないでしょうか。
私たちは、「神に委ねる」という言葉をよく使いますが、「神に委ねる」とはそう簡単にできることではありません。物事が大きければ多き程、神に委ねることが難しくなってきます。
たとえば、1万円を銀行に振り込んでくださいと、1万円を渡すことはできても、100万円となると、信頼できる人でなければ、100万円を渡すことはできません。つまり、「神に委ねる」ということは、神への信頼がなければできないということです。イエスは、十字架に付けられ殺される前に、ゲッセマネの園で、汗が血のように流れるほどに、父なる神にお祈りしたとあります。神のご計画は、イエスが十字架に付けられて殺されることでした。しかし、この時のイエスは、自分が十字架に付けられて殺されることが、なぜ、神の御心なのか理解できませんでした。それで、イエスは「この杯(十字架の死)を取り除けてくださるようにお祈りしました。」しかし、それに加えて、「わたしの望むようにではなく、あなたの望まれるままになさってください。」と祈っています。イエスはこの祈りを三度、祈ったとあります。神の御心なら自分のいのちさえもささげますという祈りです。「神に委ねる」とはそれほど大きな決断がいります。大きなことを神に委ねるためには、神への信頼がなくてはできません。イエスは神への信頼があったからこそ、ご自分のいのちを神に差し出し、十字架で殺される決心ができたのです。
アライアンス教団は病のいやしを神に祈ります。しかし、それは、神に祈ればどんな病もいやされるとか、どんな病でも熱心に祈ればいやされるという新興宗教のような祈りではありません。神は、今も生きて働かれていることを信じて、病のいやしを祈りますが、その結果は「神に委ねる」祈りです。病がいやされることだけを祈るのではなく、神の御心をなしてくださいと言う祈りです。なぜなら、私たちは死は終わりではなく、その先に天の御国があることを信じているからです。モーセは120歳で亡くなり、カナンの地に入ることはできませんでした。しかし、それは、モーセがカナンの地よりも、もっと素晴らしい天の御国に招き入れられたということです。私たちもいつかは死を迎えます。その時、私たちは大きなプレッシャーとストレスを感じます。そこで、自分のいのちさえも「神に委ねる」とき、苦しみや恐れを乗り越え、心に平安を持つことができるのです。神に自分のいのちさえ委ねると言うことは、難しいことです。神への信頼がある時、私たちはそれができます。神に委ねると言うことは、神は万事を益に変えてくださることを信じて、前に歩むということです。この後、神はヨシュアに約束されたように、ヨルダン川の流れをせき止め、イスラエルの民は渇いた地を歩いて渡ることができました。神は、ヨシュアがモーセの後継者として立てられたことを目で見える形で証明されたのです。私たちは、人生の中で、さまざまなプレッシャーやストレスを受けながら生きています。しかし、私たちは自分の力で生きているのではなりません。神が共にいて下さり、決して私たちを見捨てないと約束してくださいました。また、万事を益に変えてくださる約束してくださいました。だからこそ、私たちはどんな、プレッシャーやストレスを感じる時でも、自分自身を神に差し出すことによって、どんな状況でも心に平安を持ち、前に進むことができるのです。それこそが神より私たちに与えられた信仰の恵みなのです。